out-of-humor2
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映画について
えいが

 今、「男たちの大和」という映画が公開中であるが…。
 僕は確信している。当ブログを読んでいる賢明なる皆さんは、この映画を見ていない。それどころか興味ゼロである。
(もし「観た!」という人がいたら…、いや、まさかいないと思うのだが、もし万が一「観た!」という人がいたら、コッソリと名乗り出てはくれないでしょうか)
 ともかく、そんな皆さんに問いたい。皆さんの冷淡なる黙殺をよそに、この映画、結構ヒットしているのである。
 本当は、気になるんじゃないだろうか?。「男たちの大和」がなぜウケているのか、知りたいんじゃないだろうか?。
 というわけで、老婆心ながら僕は毒見役をかって出ることにした。【皆さんを代表して】、僕がこの映画を観る。言うまでもなく僕は、映画を評するのに必要な最低限の知識もセンスも持っていないが、しかしきっと大丈夫である。僕がシッカリと評価を下すので、みなさんはこれを【定評】として認識してよいと思う。

 さて「男たちの大和」鑑賞の3時間前。周到なる僕は、事前の準備として「YAHOO MOVIES」のユーザーレビューを閲覧してみることにしたのだが、十数篇読んでみて、俄然気持ちが昂ぶってきた。
 評判が異常に良いのである。
 曰く「素晴らしい映画!」「抜群の出来!」「史上最高の傑作!」。
 また、ほとんどの人が「泣いた!」と書いている。「上映10分で涙がボロボロ」とか「男ながら涙涙」とか。
「泣きすぎて頭が痛くなった」という人もいる。僕は、頭は始終痛くなっているが、【泣きすぎて】というのは未経験である。
 これはとんでもない映画かもしれないと思った。
 若干の気がかりは、「てにをは」の誤り、誤字、主述の不一致、無意味な反復、慣用句の誤用など、ほぼ全員の文面(ふみづら)がいたく乱れていることであったが(僕は初め、書き手は全員子供かと思った)、それとて全員が興奮状態で書きとばしていたと考えればあり得ることだ。
 映画自体が良すぎたのである。映画を思い出し、感極まって感極まって感極まって(矢沢的反復)、感極まって書いているから筆が乱れたのだ。
(中に【右寄りの人たちには左巻き映画に見えて、左巻きの人たちには右寄りに見えるあたり、この作品は真ん中ってことなんでしょう】という評があり、これだけは最後まで意味を掴みかねたが、僕に分からないだけで、これもなにか深い意味があるのだろう)。

 「千日前国際シネマ」の館内に入り、辺りを見回すと、こんなもんか?と思うほど人が少ない。レビューでは立錐の余地無しということだったが。
「あれ?」と僕は思った。しかしまあいいだろう。人が少ないほうが観やすい。
「あ、ハンカチ忘れたわ、どないしよ」と嫁が言った。泣く気満々である。
 そして館内が暗くなり、本編が始まった。






 観終わった。
 が、率直に言って、何か書く気にもならん作品だ。
 だから嫌なんだ、映画は。という思いが頭をよぎった。
 しかしここまで読んだみなさんのなかに、私の批評を楽しみにしている方もおられるかもしれない。
 だから多少なりとも、思ったことを書いておこうと思う。
 正直に白状すると、泣きそうになる箇所がないでもなかった(嫁はケロッとしていたが)。
 しかしね皆さん、朗らかな十代の女の子がやね、慕っていたオバチャンの死に直面するとか、最後原爆で死ぬとかすれば、そんなの泣けて当たり前ですよ。泣かないほうがおかしいんじゃないか。
 しかし言うまでもなく、【泣ける】ことと作品の良し悪しとは、全く別の次元の話である。
 ところが特に昨今、私の印象では、この当たり前のことが日本人の共通前提になっていない、【言うまでもなく】どころの話ではないんじゃないか、という不気味な感じがある。
 音楽であれ、文学であれ、映画であれ、【泣ける】ということを金科玉条に据えた作品のなんと多いことか。その結果世間では、どうやら【泣けるかどうか】が作品評を決定する最大の要因になりつつあるように見える。これ、実に不気味である。
「男たちの大和」なる映画は、その不気味さの中心に位置している。
 繰り返すが、【泣ける】ことは作品を構成する一要素であって、それ以上でもそれ以下でもない。また、誤解なきよう言っておくが、僕は【泣ける】ことが悪いと言っているのではない。【泣ける】作品を良い作品だと即断する軽挙妄動を問うているのである。
「金八」で僕は泣いたかもしれないが、そのことと、「相田みつをを全員で暗誦しやがって、実にくだらん」という怒りとは、全く矛盾しないのである。
 問題はどのように、あるいは、なぜ【泣ける】か?、ということだ。【泣けるかどうか】にこだわる奴は、犬がお使いを果たしても、おもんない芸人の努力が実っても、弁護士が完走しても、バカな男女の恋が成就しても、泣けさえすれば【良い作品】と言うだろう。要は、なんでもいいんだろうよ。
 だが、そういう奴ほど信用のできない人種はない。僕は、こう考えてみる。【泣けるかどうか】にこだわる奴は、【踊れるかどうか】にこだわって、パラパラに興じる奴とどこか違うのか?、と。おそらく同じであろう。つまり、それらの人々にとっては、己の生理的反応のみが絶対的基準で、作品の判断は、生理的反応の有無で決まる。生理的反応ありきの作品評価。民度の問題だと言ってしまえばそれまでだが、この情況はお粗末に過ぎる。
「いい作品だから泣けた」のではなくて、「泣けたからいい作品」なのだ。これは極論すれば、作品のテーマなりプロットなり演出なり構成なり音色なりリズムなり、クリエイターが心血を注いだほぼ全ての要素を、それが【泣ける】ポイントでない限り、見逃す可能性があるということだ。多分、微妙なものは全て見逃す。
 あ、書いているうちにどんどん、これは重大な現代病じゃないか、という気がしてきた。

 しかし話を戻そう。ともかく、この作品は【あざとい】の一言に尽きる。この作品の構成の稚拙さについて、あるいは細かくここがオカシイなどと指摘する気はとても起こらない。【あざとい】で充分である。全てが【あざとい】。音楽は久石譲ですか。まさに【あざとさ】の巨匠ではないか。一体、彼がこれほど支持され、巨匠扱いされている理由が僕には分からない。下品。
 何にせよ、こういう映画が【良い】とされるのであれば、映画は芸術とはなんの関係もないことだけは確かである。全く無益な時間を費やしてしまった。ただただ日本人の現代病を確認するために存在するような映画だ、と言えば皮肉にすぎるだろうか。
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【小心】を巡る三章~白昼の代々木公園を抜けて
すぎ

 現時点で視聴登録者が610万人を突破したというGyaO(http://www.gyao.jp/)であるが、そのなかで【最も気になるコンテンツ】と言えば、やはり杉作J太郎(本名、杉恭介)の映像ブログ「男の世界を求めて」でしょう。
 断っておくと、私はJの漫画もエッセイも読んだことがなく、さらには最近彼は映画を撮っているそうですが、それも観ていません。つまり私はテレビタレントとしてのJしか知らない。おそらくこれはJについて何も知らないのと同じです。
 その私がJに関して稿を起こそうというのだから、実に思い上がった、乱暴な話です。あるいは、Jマニアの方々にとって見当外れなことも書くかもしれない。
 しかし、【ま、いいじゃありませんか】(J口調で)。何も知らない男が書くJ論があったとしても、それはそれで一興だと思いませんか?

 さて、私は全29編、時間にして3時間20分にも渡るこの映像ブログを全て見ました。
 その上で改めて考えてみて、私はこれが面白いかどうか分からない。面白いと言えば面白いが、つまらんと言えなくもない。
 しかし事実として、私はこれを一気に見てしまった。
 なぜでしょうか。
 客観的に言うなら、J周辺のサブカル人脈(こういう言い方はもはや意味を成しませんが、ま、いいじゃありませんか)の出演をおもろがる人もおられるでしょう。ブログ後半は、ほとんどJ監督作品のメイキングの態を為すので、映画出演者であるところのリリーフランキー、ロマンポルシェ、宇多丸、横山剣、みうらじゅん、根本敬らの、いわゆる【濃いメンツ】が登場し、大変賑々しい装いではあります。上記のメンツを「豪華!」と見る方々にとってはたまらんものがあるでしょう。
 また、時折見せるJの独り語り、そのグルーヴ感たるや素晴らしく、女衒さながらの軽薄さを撒き散らしながら、安定感抜群の逸品であります。これに聞き惚れる方もおられるでしょう。
 しかし私が最も魅かれたのはそういうところではなくて、そのポイントは実は冒頭にあるのです。
 探り探りの、覚束ない手つきで収録された1回目の映像につられて、私は全部見てしまった。
 大雑把に言えば、それは次のようなものです。
***************
 8月の強い日差しを避けるように、代々木公園の木陰を急ぐ面相怪しきこの男、杉作J太郎(本名、杉恭介)。つまらぬ軽口を叩き、うっすらと頭に汗を浮かべながら、【妙に急いで】いる。
 木陰を抜け、噴水の脇を通り、代々木体育館へ向かう。目指す先には、「モー娘。コンサート」への期待感にざわめく漢(おとこ)達の群れ、群れ、群れ。
***************
 …と、そういうことなのです。ただ、それだけです。
 しかし、私は見入ってしまった。なぜならJの奇妙な急ぎように、なんとも心引かれるところがあるからです。
 彼は映像中で、【待ち合わせの相手が既に到着しているから】急いでいると言っています。これは、明言している。
 しかしながら見たところそうではないのです。彼は明らかに別の理由で急いでいる。
 Jは【デジカムを自分に向けて、独りで喋りながら歩くのが恥ずかしい】から急いでいるのです。疑いなくそうだと思います。そしてその何やら縮み上がった様子は、とても演技とは思えない。
 私はここにJの【小心】を見るわけです。
 実際に「独りでブツブツ喋っていると、デンジャラスだと思われる」とかなんとか、自分の行為に対する違和感を口にしているし、何よりも目がおかしい。あれは、イッた目ですね。
 言うまでもなく、Jは素人ではないのです。TV業界に長く関わり、「トゥナイト2」等でレポーター歴も長い。そんな男が「USEN」に頼まれてこの仕事を請け負い、その第一回目にこの企画を選んだのです。
 つまり【こうなること】は分かっていたはずです。にもかかわらずJは、人目を気にしてキュウキュウとしている。Jは、本当は(代々木公園を)走り抜けたかったに違いない。しかし【手ブレ】を気にして、走るに走れなかったのです。
 例えば、同じことをワッキーでも原口あきまさでもよい。そういう神経の図太さだけはガマ蛙なみのコンパ芸人にやらせてごらんなさい。おそらく堂々たる構えで務め上げたと思います。
 しかしJにはそれができなかった。
 私は、この一事はJの人となりをとてもよく表していると思うのです。
 これに比べれば、彼自身がどんなに「モー娘。LOVE」を力説しようと、いい年したおっさんがアイドルに入れあげている、その【意味】なんて何程のことはないと私は思います。第一にそれはありふれているし、穿って見れば、それは【あえて】やっているようにも思える。
 でも【デジカムを自分に向けて、独りで喋りながら歩くのが恥ずかしい】という感覚は、【あえて】ではない。【意図するしないにかかわらず】滲み出てしまったのです。
 恥ずかしいならやめればよかったのです。これは推測ですが、映像ブログの内容はほぼJの裁量で決められるはずですから。しかしやめない。根本敬流に言うなら「でもやるんだよ!」というところでしょうか。
 一般的に言って【デジカムを自分に向けて、独りで喋りながら歩く】ことは、奇妙なことです。ところが業界では、それはさほど奇妙ではありません。十分にあり得ることです。【慣れ】に従って、奇妙が奇妙でなくなるのです。
 非常に恐いことだと思います。奇妙なことを奇妙だと感じなくなったということは、自分が奇妙な人間になったということに他ならないからです。
 だが少なくともJは、奇妙を奇妙として意識し続け、意識しているにも関わらず自ら選んでそれを行い、勝手に苦しい思いをしている。サービス精神と【自分内のルール】との間で鋭い葛藤があります。
 だから私は、これはある種、表現の品性に関わる問題だと思うのです。
 勿論、これは言うほど大きな問題ではないかもしれませんし、その可能性は大いにあります。私の単なる深読みかもしれない。しかし、深読みもできない表現になんの魅力がありますか?

 そもそも「男の世界を求めて」とは何とも仰々しいタイトルです。こういう男臭い物言いは、それが真剣であれオフザケであれ、極めて類型的なものです。「男とは」「男たるもの」…そういうテーマを好む語り手、表現者は古今東西腐るほどいます。そしてそのうちの九割は、必ずどこかで聞き覚えのあるもので、ハッキリ言って退屈です。
 ところがこのコンテンツのなかでは、タイトルに反して、Jはそういう類の表現はほとんどやっていないように見えます。
 これは【竜頭蛇尾】というような問題ではないと思います。私の感じでは、Jの言う【男の世界】が通俗的な用語法としての【男の世界】と異なることが原因です。彼がヤクザ映画を好むというベタな感覚を持っていたとしても、です。
 Jはいわゆる【男の世界】を求めているのではありません。彼はなんだか言い表しにくい、第三者にとっては訳の分からない倫理を求めている。それは彼の考える最良の規律でしょうが、私はそれを【J倫理】と呼びます。彼だけが遵守しようと努め、勝手にがんじがらめになっている美学的なルール、【縛り】のことです。そして私の考えでは、その【縛り】は、おそらく【小心】という繊維で紡がれている。
 自分勝手に設けた(あるいは設けさせられた)ルールがどんどん張り巡らされて、Jの行動は理不尽に制限され、いきおい不自由な思いをする。私が感動するのは、もしくはJがある層から支持を受けているとすれば、そのルールの張り方や、そういう馬鹿な仕組みによってです。

 白昼の代々木公園を抜けると何が見えたか。もちろん、ステロタイプな【男の世界】なんて見えやしない。汗を吹き上げ歩きに歩いて、ようやく掴んだ尻尾の如きものは、イビツな形の、イビツゆえに胸をうつ【J倫理】の影である。
 しかし、一体誰がそのイビツな影を足蹴にできるだろうか?
【小心】を巡る三章~山賊に礼を言う男
ぱたー

 枚方の子供らのヒーローと言えば無論Kさんであるが(ゴルフ狂ファイルシリーズ「懐かれるということ~その一」参照)、そのKさんが口を極めて言うには、「エロ動画口止め男」の称え名も勇ましいHさんの【子供の扱いよう】たるや、目を見張るものがあるらしい。
 私とKさんはその日、緊急にクラブ在庫の移出をするために枚方から大阪市内にあるHさんの店へと車で向かっていた。その車内でKさんはHさんを俎上に上げて、いかにも機嫌よく、その奇行をあげつらい続けたのだった。
 曰く…。Hさんのなかには大人・子供の区別がない。大人であろうと子供であろうと男であろうと女であろうと、すべて客という唯一の【人格】として認識し、扱うので、子供に対しても「いらっしゃいませ」に始まり、「はい」「そうですか」「お待ちください」などと常に形式ばった敬語で話し、親しみやすさのかけらもない。換言するなら、サジ加減は一切ないのだ。
 むしろ子供の方がタメ口を利いているという。「おっちゃん、これ見せて」「分かりました」「便所どこ?」「ちょっと待ってください」などと、そのオカシなやり取りはまるで【坊ちゃんと年老いた執事】のようだというのだ。
 Hさんならあり得る話だ、と私は思った。私もHさんの奇行はさんざん目の当たりにしている。
 そういう馬鹿話をしつつ、Hさんの店に到着した。
 
 ドアを開ける直前、なぜか複数の子供の嬌声が聞こえ、私が店内に入ると声はピタリと止み、3人の子供(小学校の中学年くらいだろうか)がこちらに引きつった顔を向けて、立ちすくんでいた。各々の手にはパターが握られている。
 Hさんはと言えば、その子供らを少し離れたカウンターの内部から虚ろな目つきで眺めていた。
 私は不審に思ったが、車内での話題を振り返り、夢心地の既視感に高ぶった。
 後から入ってきたKさんも私と同じ心境だっただろう。私とKさんは目線を一度、チラと合わせた。
「お疲れさん」
 私とKさんがカウンター内に入ると、Hさんが憮然とした表情で言った。
「いやあ、意外と早う着きましたわ」「今日、相当寒いですね」と私らは口々に言ったが、気もそぞろであった。子供らがパターを持って何をしでかしていたのか、気になって仕方がない。
 私はバックルームへ入り(と、言っても店内を見渡せる位置だが)、タバコを吸った。HさんとKさんは、カウンター内で先日のコンペの話をしていた。砂を噛むような味気ない会話だったが、ひそかに私とKさんが子供らを意識し続けていたのは言うまでもないだろう。 
 子供らはしばらく固まってヒソヒソと話していたが、明らかに店の関係者である私らが来て気まずい思いをしたか、そそくさとパターを売り場に戻し、逃げるように退散した。
「ありがとうございましたっ!」(終わりに向かってだんだん強く!いわゆるクレシェンドな言い方で)とHさんが言った。大いなる怒気を孕んでいた。
 ただならぬ情況であることは誰の目にも明らかだった。私とKさんは再び目を合わせた。(Hさんに)聞きたいことは山ほどある。まず何から聞こうか、という目配せであった。
 だが、幸いにもHさんの方から切り出した。窪んだ目をギョロギョロと泳がせて、矢継ぎ早にHさんは憤りを吐き出した。完全に頭にきていた。怒りすぎてHさんの言うことは支離滅裂であったので翻訳・解説しよう。
 簡単に言えば子供らは、Hさんの店を不当に占有、私物化して【わりあいに本格的なパターゴルフ大会】を開いていたのだった。

 中古ゴルフ屋の店内を知らぬ皆さんのために、少し説明しておこう。
 どこの店でも、パター売り場には客が自由に【試し打ち】ができるように【パター室内練習用マット】が置いてある。街金の社長室に必ずあるアレである(知らんけど)。おっさんの客達はそれを用いて、あ、このパターは左に引っかかる、これは最後のひと転がりが無いなどと能書きを垂れながら、購入するパターの品定めをするのである。
 無論Hさんの店にもある。
 子供らは、このパターマットをフェアウェイに見立てて、パターゴルフ大会をやっていたというのだ。
「完全に営業妨害や!」Hさんは語気を荒げた。
 聞けばこのパターゴルフ大会、相当悪質なもので、最終的にパターマットのカップを目指していくのだが、第一打、いわゆるティーショットは、店舗内のあらゆる場所から打つのだという。
【レディースコーナー】を、【玄関マット】を、【カウンターのすぐ脇】を、【グローブなどの小物売り場】を、子供らは仮想のティーグラウンドに定め、そこからフロアを縦横無尽に、ゴロゴロリンとボールを横断させて、パターマットにカップインさせる打数を競うらしい。
 昔、「内P」で芸人の家に押しかけて、室内でドッタンバッタンと野球やPKやバーベキューをやっていたが、それに似た趣である。要は我が物顔で人の敷地に居座り、狼藉の限りを尽くしているわけだ。当人たちは新しい遊びを思いついて楽しゅうて堪らんというところだろうが、なんとも大胆不敵な子供がいたものである。
 しかしさらに驚くべきことは、Hさんは、そんな山賊のごとき子供らを諌めるどころか、黙認していたというのである。
 呆れ果てた話である。
 慣れ親しんだ校庭を駆け回るかのように、子供らは店内を颯爽と歩き、ショットの出来不出来に一喜一憂しながらプレイしたのだろう。しかしHさんは、そんな彼らのハッチャケぶりや目の前や足元をゴロゴロと転がるボールを、時折細かい舌打ちや咳払いはしたかもしれないが、大筋はただただ恨めしげに見ていただけなのだ。
 だが、なぜHさんは何も言わなかったのか。謎である。先程、私はHさんの言い分は支離滅裂だったと書いたが、一応ここに列挙してみようか。読めば読むほど謎は深まるだろうと思うが。

 曰く「この狼藉は昨年末に始まり、これで3回目。1回目に注意しそびれたので、今更言いにくい」
 曰く「中の一人が、常連のおっさんの息子かもしれない。一度連れ立ってきていたのを見たような気がする」
 曰く「中の一人の親か兄貴がヤクザかヤンキーかもしれない」
 曰く「最近の子供は人に注意されるとすぐキレる」
 曰く「中の一人がまあまあデカイ」
 曰く「武器(パター)を持っている」
 曰く「一応ゴルフをやっている(ので憎みきれない)」
 曰く「もしかすると、使ったパターを買ってくれるかもしれない」等等…。

 これら素っ頓狂な物言いに対して、いちいち突っ込むことは勿論できる。しかし私が最も感銘を受けたのは、かかる暴徒(子供)に対してでさえ、Hさんが「ありがとうございます」と言ったことだった。自分の店が荒らしに荒らされ、営業を妨害され、大人の尊厳を踏み潰され、内心ハラワタ煮えくり返りながら、それでも「ありがとうございます」と、振り絞って言ったことだった。
 断腸の礼式。Hさんは少なくとも3回それをやっている。
 キリスト、あるいはマハトマ・ガンジーの域に達した、とはいささか言いすぎだろうか。
【小心】を巡る三章~常に不意打ちを警戒する男
みなみ

 例えばあなた、街頭でティッシュを受け取りますか?
 私はほとんど取らないですけれども、どうやら世の中には【絶対取る】という人もいるらしい。チラシならチラシを、ティッシュならティッシュを100パーの確率で受け取る。
 なぜでしょうか。
 強欲の為か、慈悲のためか、あるいはそれ以外の心象によるのか。
 これは私には分かりません。
 しかし、かつてただ一人だけ、私にその問いを考える上でのヒントを与えてくれた男がいたのです。

 福島県出身で、いつまでも訛りの抜けぬYという男がいました。
 Yは一風変わった男で、例えば彼と夜のミナミを歩くとしましょう。そうすると遅々として進まないんですね。下手をすると2,3百メートル歩くのに30分近くかかったりする。
 なぜか?。風俗店のキャッチに呼び止められるからです。今は条例のおかげであまり姿を見ませんけれども、昔は通りに黒スーツがウジャウジャと溢れていました。彼らは誰彼かまわず声をかけまくる。それでYは、声をかけられる度に立ち止まって、いちいち話し込んでしまうんですね。
 Yは(キャッチに)捕まりやすいと言えば捕まりやすい、そういう人(にん)が原因だと断ずることもできますが、それだけではない。合わせなくてもよいのに話を合わせたり、答えなくてもよい質問に答えたりするYの方にも、話が長引く責任の一端はあるのです。
 もし、そのとき偶然にも風俗に行きたい気分だったのなら渡りに船だ、必要なだけの話をしてサッサと行けばよい。でもそうでない限り、普通は無視するか、適当にあしらいそうなものです。
 だがYは決してそうしないのですね。
 断っておくと、好き好んで話し込むのではないのです。それどころかYは、キャッチに話しかけられるのが嫌で嫌で仕方がない。それが理由で「もうミナミには行きたくない」と弱音を吐くほどなのです。本気で、嫌なのです。
 それなら尚のこと、無視すればよいとじゃないかと普通の方は思うでしょう。でもYは断じて違うのでした。ある理由に拠って、Yは決して無視しないし、あしらうような態度を取りません。
 その理由は明快です。キャッチを無視するのは【無礼】【危険】だからです。それは、僕は突き詰めて聞いたことがあるのです。
 Yは遠い目をしてこう言いました。
「あのな、普通さ、人に声かけてさ、無視されたらムカつくべ。akaだってムカつくだろ。だからよ、俺は一応よ、初めて喋る相手だけどもよ、キチンと話だけはしとかなきゃって思うんだ」
 Yは次のように考えていました。仮に我々がキャッチを無視して通り過ぎたとしよう。しかし、たまたまそのキャッチが滅法気の荒い人物で、しかも運悪く、虫の居所がマックスに悪ければ、シカトされたのを恨みに思って【必ず殴りかかってくるよ】と。

「そしたらaka、どうやって対抗する。対抗できんべ?。俺ら通り過ぎて、背ぇ向けちゃってるかんな。バック取られちゃってるよ。もう普通によ、【後ろから頭殴られるべ?】。そしたらaka、絶対ビックリして倒れてよ、後は好き放題蹴られるべ、半殺しだな」

 この【後ろから頭殴られる】ということをYは非常に気にするのです。とにかくもう【後ろから頭殴られる】のだけは勘弁だ、と。それは最も危険な状況であって、かつ絶対に避けられない。そして、喧嘩は【先手】を取られれば必ずやられる。【後ろから頭殴る】、それ以上に効果的な【先手】はなく、逆に言うと、それ以上に悲惨な【後手】はないのだと、Yは力みかえって説くのです。

(その数年後、前田日明が安生に不意打ちでやられたのを聞き、私はYの主張の正しさを改めて思い知った次第で…)

 しかしYが【先方とキチンと交渉してくれている】おかげで、少なくとも私は半殺しにならずに済んでいる。だから私はYに感謝こそすれ、彼の行動をバカにしたり、歩みの遅さにイライラした素振りを見せたりするのはもっての外だと、そう言うのです。

「ちょっと頭使って考えてみ?。あの人らはな、人に無視されて無視されて、無視され続けてよ。ストレス多いべ?。あれは相当たまってるな。いつキレてもおかしくないべ。おまえは、絶対そんなことないって思ってるかもしれんけどよ、俺には分かるべ。おまえが思ってるほどよ、あの人らがキレる確率は低くないべ」
 
 私はYの話に大変感銘を受けました。そして私は直ちに謝り、今後一切Yのことをバカにしたり、苛立って舌打ちをしないことを誓いました。
 それ以後私は、Yのギリギリの【言い訳】を虚心で味わうことにしたのです。
「で、ですから、僕らはこれから、ひ、人に会う予定が…、つ、詰まっているので、今回は、あの、人も待たせちゃって、今から急いで行く途中なんですね。だから、こ、今回は、あのどうしても、僕らは行かないと、あの、もういいすか?、え?、あの、居酒屋なんですけど、はい、はい、でも、かなり前から約束をしていまして、ええ、そうですね。ま、マジメな話になると思うんですけど、就職とか、そういうことも話すと思うんですけども、あの、もう、少し遅れてきてしまってるんで、もういいすか?」
賀状について
 賀状が来る枚数が少ないような気がしている。
 とりあえず今日まで首を長くして待ってみたが、一向に数が伸びる気配がない。
 私自身、中学の頃から賀状をほとんど出していないのだから、数の少なさを嘆くのはお門違いである。身から出た錆だ。
 でも、だからこそ私はこう思っているのだ。そんな私の不精に腹も立てず愛想もつかさず、貴重な年賀ハガキの一枚を私に費やしてくれた慈悲深い人は、これは天使のような人に違いない。
 私にはこの【天使な方々】の恩に報いる義務がある。その人々とは一生友人でいたいと私、勝手に思っているのであります。
 その証拠を挙げよう。小学校の同級生で、現在までずっと私に賀状をくれているNという男がいる。Nは下の名前を池田先生につけて頂いた(真偽のほどは定かでないが、)というのが自慢の創価学会員であるが、彼は岡山、私は大阪と距離こそ隔たってしまったが、数年に一度電話で話しては昔話に花を咲かせて、旧交を温めるのである。彼とはおそらく一生この関係が続くだろう。
 
 麗しい関係である。数年に一度というそのタイミングが常に国政選挙の時期に重なっているのは、単なる偶然に過ぎない。

 賀状と言えば。
 一昨年の話だが、親父から賀状が届いた。
 その前年に還暦を迎え、職場(消防署)を退いた親父の文面は胸に沁みた。
 だが、芝の緑が映えるゴルフ場と思しき写真の下に、次のような短歌が添えられてあった。

 還暦の 刻(とき)を迎えて 今も尚
      ボールと芝に 心ときめく 


 なんてグッとくる歌だろう。
「刻(とき)」などと細工を弄しているわりに、下の句の乱雑さ、軽薄さといったらない。「心ときめく」なんて、まるで少女のようではないか。「ま、これでええか?」と諦めたフシすらある。
 私は、あ、イノセンスとはこういうことか、と目から鱗の落ちる思いであった。これに比べれば、子供のイノセンスなんて屁のようなものだ。だって悲しみがないじゃないか。
 また、このような素人短歌を賀状に刷っておきながら少しも身のすくんだ様子がない、その臆面の無さも頼もしい。
 私は取るものも取りあえず電話をした。
「親父、あけましておめでとう。ところであの短歌が素晴らしいね。大変な才能だ。純粋無垢な才能がとうとう開花したな。年明け早々、おれは感動してしまったよ」
 親父はうんうんと頷き、おもむろに、じっくりとした口調で「お前もようやく短歌の良さが分かるようになったか」と言った。

 その後、親父は味をしめ、短歌詠みに没頭し始めたそうだ。
 数ヶ月後、「月刊消防」なる雑誌(読みてー!、「月刊消防」)に投稿した親父の短歌が金賞を受賞したという。
 喜びに弾む声で親父から電話がかかってきた。
 その短歌は、親父の退職祝いの席で、たくさんの後輩たちが両手に余るほどの花束をくれた、その刹那の心境を歌ったものだった。
 残念ながら、私はその短歌の大部分を忘れてしまった。だが結語だけは覚えている。
 確か…、

***** ******* *****
         ******* 胸いっぱい

 
「親父、ずいぶん腕が上がっているな。進化しとるよ」と私は言い、「だいぶ要領を得たろう」と親父は自慢げに答えた。
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