out-of-humor2
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
御批判
 見知らぬ方から貴重な御批判を頂いたので、みなさん「映画について」を閲覧してみてください。
 
 諸君、襟を正して読もうやないか!
スポンサーサイト
名も無き名文
 例えば結婚をした、親が死んだ、子供が生まれた。
 人生の一大事である。
 そういう時、古来、人がなにをしてきたかというと、言うまでも無く歌を詠み、詩を書き、小説を書いたのである。
 現在我々が読むことの出来るものですら、そうした動機に拠って書かれたものは無数にあるだろう。名も無き常民の手によるものとなれば、これは文字通り星の数に比肩する。
 それらを卑俗だというのは簡単な話だ。子供が生まれて嬉しい、ひとつ小説でも書いてやろうかというのは成る程卑しい試みに違いない。また事実、作品としてみればそういうものにロクなものはなかろう。
 だが私は例外的な傑作を発見してしまった。
 石の山に玉(ぎょく)を見た。

 以下に挙げるのは、その証明たる短文である。
 ある男が子犬を買うた。男は子犬をしつけ訓練士に預けていたが、約束の期間を経て、遂に引き取る日が来た。晴れて我が家族となった子犬が誠に可愛い。嬉しい。その思いを綴った短文である。

http://star.ap.teacup.com/kotetsu/10.html

 子犬に対する愛情が過不足なく書かれている。書き手のお人柄が偲ばれる、胸のすくような短文ではないか。
 なかんずく、「フィガロ、フィガロで大変大事に…」という一文など、私は微笑無しでは読めない。
 その微笑が何を意味するかについて、君ら、くれぐれも邪推してくれるな!
直言について
 本日、宮崎学責任編集ウェブマガジン「直言」が創刊されたようです。
 宮崎を筆頭に、手鏡教授でお馴染みの植草一秀、外務省のラスプーチンこと佐藤優といった前科者、いえ、ある意味での豪の者を執筆陣に揃え、いささか期待のできるサイトだと思います。
「直言」~そのタイトルに恥じぬ内容であってほしいものです。

 前回紹介した「yomone」にも、杉作J太郎、水野晴郎、みうらじゅん等、ある意味で前掲の執筆陣に負けぬ曲者を揃えていますし、また吉田戦車の「観覧車紀行」、立川談志の「世相講談」等、読み応え(観応え)のあるコンテンツもあります。
 講談社のポータルサイト「MouRa」は、そのくだらないタイトルに反して面白くなってきたように思います。
電車に乗らない理由
 例えばあなた、こういうクイズがあったとして答えられますか?
「杉作J太郎さんは電車に乗りません。なぜでしょうか?」
 答えはこれです。
 
 後出しジャンケンみたいで申し訳ありませんが、僕は当てられたと思います。なぜなら彼が電車を嫌うとすれば、この理由しかないからです。
ゴルフ狂正伝「天そばに」
 下世話遊具・ツイスターをいつまでも自部屋の奥でくすぶらせ続ける、幼名「肉哭き」ことKさんであるが、彼は巨大掲示板・2ちゃんねるをこよなく愛している。
 
 そもそもKさんは時折私に時事的な話題を振ってくるが、そのときの情報ソースは決まって2ちゃんねるであり(さもなければ「BUBUKA」、それ以外では「アサ芸」もしくは「ナイスポ」)、筑紫哲也はかつてそれを便所の落書きと罵倒したそうだから、筑紫から見れば、さしずめKさんはあちこちの便所に出没する出歯亀の如き男だということになる。

 ホモビデオへの出演が災いして日本球界を追われた多田野ナニガシ、クラブでの泥酔御乱交が報じられた里谷ナニガシ、未成年飲酒を促した菊間ナニガシ、そして神、田代まさしらは、Kさんにとっていつまでも興味の対象であり続け、彼らの名前をスレに発見すれば矢も盾もたまらず、イヒヒと卑屈な笑いを漏らしながら閲覧し続けるのである。

 Kさんがなにやら険しい顔をしてPOSレジ兼用パソコンのモニターを睨んでいるとき、まず2ちゃんねるを見ていると思って間違いない。
 
 客の皆さん、その小太りの眼鏡男がモニターを睨んで思わせぶりにマウスをカチカチ言わせているのは、業務とは一切関係がありません。振袖の如く長い掲示板を単にスクロールさせているだけです。
 
 だが、一方で私とKさんは2ちゃんねる、あるいは2ちゃんねらーがいかに恐ろしいかについて、かねがね話し合っていたのだった。
 悪質な風説の流布、祭りに巻き込まれて炎上、閉鎖に追い込まれたサイトやブログ、ネット上アンケートへの組織票(例えばこれを見よ)などについて私らは語り、「恐いねー」などと頷き合っていたのである。
 だからKさんがいかに2ちゃんねるを愛しているとはいえ、専ら閲覧するのみで、己が書き込むということはくれぐれも自制していたのだ。
 
 しかし悲しいかな、憧れがあったようだ。
 Kさんにとって、2ちゃんねる上で交わされる丁々発止のやり取りは便所の落書きどころか、ウィットに富んだサロントークに見えていたらしい。僕も参加したいという思い(ちなみにKさん、38才)で、日々悶々としていたのだろう。

 昨日、珍しくKさんが上気した顔で近寄ってきて、志方俊之(元陸自北部方面総監)を思わせる籠もった高い声で私に言ってきた。
「晴れて2ちゃんねるデビューしました!」
 
 聞けばKさんは、荒らしが無く穏やかなこと瀬戸内海さながらのとあるスレに目を付け、数日間悩んだ挙句書き込みを決意し、だがいざ書こうとすれば、俺の文言がキッカケで荒れ始めたらどうしよう、猛烈な反論があればどうしよう、晒し上げられたら恐い、巨大なアスキーアートで嘲笑されたら地獄だ、終いに個人情報を突き止められ、尾行されたり盗撮されたりするのではないかと襲い来る恐怖心にすくみ上がり、そして、誤字はないか?、文体はイキっていないか?と一語書いては止まり一語書いては止まり、最終的にこれでよしと判断してEnterのキーを叩いたときには、マウスが汗でヌルッヌルになっていたという。

「何を書いたのか教えてください、ぜひ、早く教えてください!」と私は言い、Kさんは当初、「いやあ、でも恥ずかしい」とかなんとか、38才、小デブのおっさんにあるまじき煮え切らなさを見せたが、執拗に食い下がる私の根気に負け、ようやく教えてくれたのが下のスレ「阪急そば2」である。304番の書き込みをご覧ください。
http://food6.2ch.net/test/read.cgi/jnoodle/1092219155/

 天そばにきざみトッピング美味いですよ。

 と、書いてある…。
 刹那、私は呆気に取られたが、ジワジワとさすがKさん!、という気持ちが沸いてきた。
 数日悩みに悩んで、手を汗だくにするほどの恐怖心に打ち勝った渾身の一文が、これなのか。
 
 天そばにきざみトッピング美味いですよ。
 
 月見草(野村克也・談)のような慎ましい書き込み。
 一体この文章に、どんな辛辣な反論がありうるだろう。
 
 しかしKさんはこの一文を書き込んだ後、大急いでインターネット・エクスプローラを閉じて、一仕事終えたというような顔でコーヒーを飲み、普段は吸わぬ煙草を吸い、ふうと息を吐いて瞑想したという。
 そして帰宅後も、ああ、俺の書き込みはどうなっているだろう、荒れてはいないだろうか、スルーされただろうか、もしやレスが、好意的なレスが!…、いや、まさか、などと思考は堂々巡りを繰り返し、しかし恐怖のあまり確認できず、布団に入ったはよいが眠れずムックリと起き上がり、PCを起動しようとしては止め、そして翌日。後は野となれと、清水の舞台から飛び降りる思いでソッーと見てみれば、

>>304
ヒント:店


 と書いてある。
 Kさん、ひゃっと飛び上がって喜び、それからまた数時間レスを推敲して、

武庫之荘です。
きざみは80円を直接オバチャンに払います。
かやくごはんによくあいます。

 
 と書き込んだのだという。
「いやあ、良かったですわ。何事もなくて」 
 少々自慢げな、なにやら食えぬ顔のKさんであった。
一行情報
 銀行立て籠もり犯・Kさん(ゴルフ狂正伝「籠城」参照)にツイスター購入の過去アリ!
1054857[1].jpg

↑ツイスター!
新情報
 銀行立て籠もり犯としてお馴染み(「ゴルフ狂正伝~籠城」参照)、Kさんの小学校のときのあだ名が判明したので取り急ぎご報告まで。
 幼い頃、彼は【肉】を食せず、給食に【肉】が出ると大いに弱り、といって残すことは頑として許されなかったので、長時間かけて泣きながら食っていたのだという。
 そこで付けられたあだ名が…

【肉哭き】(ニクナキ)!!!!!!!

【肉哭き】なんて、ひどいじゃないか。まるで、化け物じゃないか。

罰ゲームさながら
 これがリュージュで…


 これがスケルトンで…
1070018121[1].jpg

 これがボブスレー
two-man_1[1].jpg


 なんじゃそら!?

 そらバラエティ番組でやることちゃうのか。
 志生野の実況で。
shiono[1].jpg


 とはいえ、Yahooスポーツの「トリノオリンピック特集」~「競技紹介」で用いられるアニメーションは何か魅かれるものがあります。
↓これはスケルトン紹介のアニメです。
 種目→トラック→技術→用具と順にご覧ください。
http://torino.yahoo.co.jp/guide/event/skeleton/
メロ動画
「オリンピックに際し、まずは村主選手を応援してみる」のコメントで宇宙の羊氏がご指摘のメロラップ。動画がありましたので一応。↓
http://gazo05.chbox.jp/gb.php?gbid=wara-movie&res=31852
 それにしても悪意しかない動画ですね。
 これは、年端もいかぬ女子にイイようにやられている後ろのスポンサー共の苦笑をこそ嘲い、また責めるべきです。
堀紘一がピンチ!
 なんだかワクワクする展開↓
http://straydog.way-nifty.com/yamaokashunsuke/
「堀紘一がピンチ」というのは素晴らしいキャッチですね。「堀紘一がピンチ」、ああ、なんともエエ響きやわ。
 元「噂真」のレギュラーライターが報じるこの記事、問題が表面化し、ワイドショーレベルでお祭り化せえへんかなあ。
 姉歯建築士とヒューザー小嶋の最もアカン(とされている)ところを兼ね備えた堀紘一(要は偽装と虚勢であるが)。そうか、ピンチかぁ。
堀紘一

オリンピックに際し、まずは村主選手を応援してみる
 オリンピックが始まりました。
 もちろん僕は日本人選手の成績などになんの興味もないし、現在巷に跋扈している、女性選手を性的対象として愛でる輩になんら共感はしないけれども、この人は応援しようかと思っています。
 村主章枝選手。


 とても良い相ですね。疑いなく吉相です。
 きっと真面目で、情に篤い方だと思います。
 人望もあると思います。特に、ある層の方々からは熱狂的な支持を集めるのじゃないか、そんなお顔ですね。
 演技が終わったときなんて、際立って人を引き付ける顔をされますから。
 僕は技術的なことはまるで分かりませんが、フィギュアスケートと言えば、なんですか、妖艶さとか可憐さとか、そんなようなものを競うスポーツでしょう?。
 でも村主選手はそういう画一的な表現ではなくて、なにかフィギュアスケートの枠を超えた表現、ラジカルな身体表現(表情も含めた)を見せてくれそうな気がするのです。
 僕は門外漢ながら村主選手に提言したいのですが、おそらくタンゴ等の、2ビートでスタッカートの効いた音楽を用いればいいのではないでしょうか。 
 歯切れの良いビートに合わせて、カクカクした動きを取り入れれば勝てると思います。
 あるいは流麗なストリングスですら~と滑っておいて、急にカクッとやるのもよいと思います。
 いらぬ世話だとは思いますが。
 とにかく、がんばれ村主選手! 
頭に虎を乗せた子供
 Oさんの店が閉店して10日。
 テナント契約解除に伴う引越し作業もほぼ終わり、ふと整理台を見上げると、こんなものが。
とらのぬいぐるみ

 頭頂部に虎のヌイグルミをあしらったヘルメット。
 Oさんが一人息子Kちゃんのために作った特製のタイガース応援用ヘルメット…。
 これを被ったKちゃん=頭に虎を乗せた子供は、甲子園のライトスタンドで非常に可愛がられた。取り囲むおっさん連中は口々に「ぼん!、ええの被っとるやんけ!」と持て囃したという。
 それを横目で微笑ましく見つめたOさん。
 いわば、このヘルメットはOさんにとって【幸せの象徴】であった。
 しかし聞くところによればこのヘルメット、Oさん退社の日に同じく熱烈な阪神ファンの同僚Aさんへ、その熱烈ぶりを見込んで譲ったのだとか。「Aさんに使ってもらえたら本望や」と言うたらしい。
 置き土産のつもりであった。
 だがAさんにしてみれば、「ありがとうございます」と譲り受けたものの、内心弱った。子供のいないAさんは「正直、いらん」ということだったようだ。(Aさんの気持ちも、まあ、分らんでもない)
 それでAさん、置いていきやがった。
 Aさんは昨日ここで引っ越し作業をやっていたので、てっきり持ち帰ったものと私は思っていた。ところがAさんは、この幸せのヘルメットを、大方撤収し終わり、後は粗大ゴミしか残っていない店の片隅に、ぽつりと残していきやがった。
 捨てる気であろう。
 傍から見ていて、どうにも気持ちの悪い話だ。
 私はAさんに電話した。
「差し出がましいようですがAさん、この虎のヘルメットですが…」
「ああ、置いといて」
 …とのことだった。
 確かに賃貸解約日まではまだ少し日が残っている。が、繰り返すが、必要なものは全て本社あるいは他の直営店に移しているのである。
 やはり、捨てる気であろう。
 こともあろうに、これを!(↓)
とらのぬいぐるみ

J shows the flag
 水道橋が「おもろいおもろい」としきりに書くので「コラムの花道」を聴いてみた。
 博士、そないに持ち上げることもなかろうというのが僕の印象だが、バックナンバーを探っていると、1/16・23吉田豪の回に杉作J太郎(本名:杉恭介)がゲスト出演していた。
 冒頭、MCの小西克哉がJをこう紹介する。
「人呼んで『妄想の仕事人』、杉作J太郎さんです。ごぶさたしてます。TBS一日入館証がまぶしく胸元に輝いております。そんなに目立たせなくても(笑)。TBSは昼頃に社内放送で、『入館証は目立つように持ってください』って言ってるけど、ちゃんとしてる人は杉作さん一人ですよね」
 小西克哉という人は、僕のイメージでは悪い意味で小心さが顔に出ているのであまり好きではなかったが、この言や良しである。そこをよくぞ突いてくれた。
 確かに、入館証を胸のまんまん中にぶら下げるというのは、何故かなかなか出来ないことだ。私自身、そういうものを受付で渡されたことは何度もあるけれども、ポケットに入れたり、手に持って隠したりして、今にして思えばなんとコソコソした態度だったろうかと汗顔の至りである。
 あるいは、とあるライブに招待され、「PASSシール」をもらったとしよう。本来、堂々と胸に張ればよいに決まっている。「PASSシール」とはそのためにあるのだ。
 それを何様だろう、格好つけたつもりか、斜に構えたつもりか知らんが、腕に張ったりパンツに張ったりバッグに張ったりするのである。私は小さい。小さすぎた。
 これを読んでいる人のなかにも、心当たりのある方がおられよう。しかし皆さん、こういうどーでもよい部分で格好つけたり反抗して見せたりすることほど格好悪いことはないのである。我々は即刻、Jを見習って堂々と生きなければならない。卑屈な小細工はもうやめだ。そして、我々に真理を気付かせてくれたJにありがとうと叫ぼう。ありがとう。
 無論Jがそうするのは、吉田の言うように「不審者扱いされたくない」ためであり、【小心】の故であることは決まっているのだが、なんということか、【小心】であるがゆえに堂々としているではないか。小心であるがゆえに旗(入館証)を掲げる。ショー・ザ・フラッグ。

【追記】
 番組中で、この話題はものの数分で終わってしまう。なにをやっているのか。小西・吉田はJの映画の杜撰さや彼の半生について語る代わりに、この話題をこそ広げなければならなかったはずだが、残念ながら両者は【小心】という機微を知らぬ。
 これは致命的だと思う。
 なぜなら、いくら年表を広げても読めない情報がここにあるからであり、その部分こそ、Jの本質に違いないからである。
ゴルフ狂外伝「末路」
 熱烈な阪神タイガースファンとして知られるOさんが、1月31日付で退社した。
 悲惨な最期であった。
 詳しくは書かないが、売り上げの不振を酷く叱責され、終いには横領の濡れ衣を着せられた。実際、それは濡れ衣に違いなかったが、怒髪天を衝く社長の激昂ぶりに圧倒され、口は渇き言葉は震えて、満足に弁解もできぬまま放り出される形であった。
 15日~31日までの給料も(この会社は15日〆月末払いなのだ)、貰えるかどうか分からぬという。
 後で話を聞いた私は憤り(何故か他人の私の方が怒っている)、この解雇は明らかに不当であるから、どこへでも出るところへ出て当然の権利を主張すべきだと進言したが、Oさんは悲しく首を横に振るばかりであった。
「あんな恐い顔は2度と見たくない。揉めるのは嫌や」
 ということだった。
 それがOさんの決断ならば、仕方ないと思った。
 大変、優しい人だった。
「了解、りょ~か~い」というのが、彼の口癖だった。
 あるとき、社員連れ立ってキャバクラに飲みにいった。泥酔したOさんは、少し目を離せば隣に座ったキャバ嬢の乳を触ろうとするのだという。Oさんの後輩にあたる男が「Oさん、あきませんで」と注意をしたが、「了解、りょ~か~い」と答えるばかりで、一向に気に留める様子もなく触り続ける。それどころか、乳を狙って、眼鏡もズレ落ちん勢いで顔をすり寄せるのだという。後輩、何度か注意したのち、しばらく呆れて放っていたが、30分経っても40分経っても止めぬので、「こら、やめんか!」と強く叫ぶと、「了解、りょ~か~い」と言って、今度は止めたという。
 この話を聞いたとき、僕はなんて悲しくて、そして美しい話だろうと思った。
 僕自身、出し抜けに休暇を願い出ることが多々あったが、その都度Oさんは「了解、りょ~か~い」と軽やかに言って、許してくれた。
 あの軽やかな、言い換えれば、いかにも口先だけの「了解、りょ~か~い」が今後聞けぬとは、寂しさで身を切られる思いである。
 ところで、どころか、いきなりを切られたOさん、今後どうするか、未だ決めていないという。
 時あたかも、阪神タイガースは沖縄・宜野座で来シーズンに向けて洋々とスタートを切った。
 毎年、キャンプの段階から阪神の若手有望株をチェックするのが、Oさんにとっては年次のシキタリであった。
 しかしながら今、「あんな恐い顔は2度と見たくない」と語ったOさんは、遠く宜野座の空に何を見ているだろう。
 ゴルフ狂の時代が、僕のなかで幕を下ろそうとしている。
ご挨拶
 so-netからこちらに引っ越してきたわけですが、とにかくこの引越しが大変で、未だ半分ほどしか記事を移していないが、多分もう諦めるでしょう。あとは知らん、ということで。
 とりあえず、従前のブログで好評(?)だった「out-of-humor」と「ゴルフ狂」は移してある。
「out-of-humor」は当ブログの主要な記事で、ありていに言えば日記です。so-net時代の記事は「out-of-humor1」というカテゴリーに入れてあります。これから書き始めるものは「out-of-humor2」に入れようと思う。それを区別することに何の意味があるか、と問われれば、別にないけれども。
「ゴルフ狂ファイル」は、僕が職場(中古ゴルフ屋)で出合ったいい人たちについて書いたものです。
 ここにあるものは全て「ゴルフ狂正伝」と題されているけれども、so-net時代の記事を読んできた人は当然知っているはずですが、これは昔は「ゴルフ狂外伝」だったのです。
 僕の同僚について書いた「外伝」~当初はいわばサイドストーリーとして書いていたものが、いつの間にか本道になってしまったので、「正伝」に格上げしたわけです。
「正伝」という言葉は本来存在しませんが、これ、「阿Q正伝」から拝借したことは言うまでもないでしょう。
 あ、なんか初めて読んでくれる人にも分かるような書き方してるな。エライね。ま、いきなりこんな訳の分からぬ設定を力説されても困るでしょうが。
 ともかく今後とも宜しくお願いします。

スペアリブなんて知るか!
すぺあ

 今、私はとても忙しい。
 年末年始に録画した特番を一刻も早く観なければならない。時間の許す限り観ているのだが、並行して新しく録画するものもあり、ついそちらから先に観てしまうこともあるので、未鑑賞番組の全体数はほとんど減っていかない。
 だがそうすると必然的に、暮らしぶりは大変味気ないものになる。正月以来、めでたいことなど何もない。部屋に籠もってひたすらビデオを観るだけである。
 私はそれで一向構いはしない。が、嫁はやはり納得がいかぬようで、このクソ忙しい最中、堀江にイタリア料理を食いに行った。
【トマトとモッツァレラチーズのサラダ】と【ホタテと????のパスタ~アサリ風味】を食い終わり、メインの【イベリコ豚のスペアリブ~二人前】が運ばれてきた。
 このイベリコ豚を、私はなんとなく頼んだ。特別な意図はない。しかし皿に盛られた【茶色の棒】を前に、私の手はぴたりと止まった。
 私自身びっくりしたことは、自分はこの年になるまでスペアリブを食ったことがない、という事実であった。積み上げられた【スペアリブ】を、至近距離で見て初めてそのことに気付いた。私は【スペアリブ】という言葉を知り、発語し、その物体のビジュアルを知り、結果、なにを狂ったか、その【言葉の身近さ】によって実際食ってもいないものを食ったと誤認していたのである。、
 その証拠に、現に私は今、この茶色の棒をどのように食うのかが分からないでいる。手を、こまねいている。
「これはどうやって食うの?」蟹のようにナイフとフォークをハスに構えて私は尋ねた。
「手で食べたらええねん」と嫁は言い、棒の両端を摘んで何彼なしに齧り始めた。
 それでいいのか、と私は少し安心し、しかし若干の警戒心を抱きつつ、嫁の食う様を上目で盗み見ながら恐る恐る棒に齧りついた。
 山城慎吾風に言うならば、私はこの【イベリコの豚の棒】を、ひとしきり表にしたり裏にしたりしながら齧った後、もうこれ以上食えまい、食う部位は微塵もあるまいと判断して、一回り細くなったそれを皿に返した。
 しかし…、
「いやいやいや。ちゃんと食べようや」
 嫁はそう言って、自分の齧り終えたそれを皿に返した。からんと音がした。見ると、それは象牙のように白く、鈍い光を放つ棒であった。それは【骨そのもの】だった。
 一方、私の置いた棒は白さのカケラもなく、こんがりと焼けた薄皮や肉片が、ターザン山本の頭頂部のような乱雑さで散らかって付着していた。とはいえそれは、とてもしつこい感じでこびり付いているので、歯でもってコソギ落とすことができるかどうか、不明である。
 というか、確かにそれはまだ食えるかもしれないが、食うべきでない部分ではないのか。スイカやメロンの内壁に近き白い部分と同じで、それを食うのは行儀に欠けるということにならないか。私はそう思った。なぜなら、歯でコソギ落とすなんて、これは公にはやってはいけない事だからである。
 けれども、嫁の置いたそれの、なんと清清しい色だろう。
 私は、嫁の骨と私の骨をしばらく無言で見比べ、非常に嫌な気分になった。
 白く輝く棒とケバ立った茶色の棒。
 その違いが象徴するものは、なにか身分の違い、出自の違い、生まれ持った品性の違いだという感じがした。
「くだらん食い物さ」私は言った。
「分からんのは、この焼き目だ。骨についているのか薄皮についているのか。つまり、どこまで噛んでよいのか分からん。それに見ろ、手がベタベタだ。ろくなものじゃない」
 私は油で光った手を拭いた。執拗に、ぐいぐいと手を拭きながら、私は言った。
「もう、2度と食わんよ。頼まれても俺は、一生スペアリブなんて食わん」
映画について
えいが

 今、「男たちの大和」という映画が公開中であるが…。
 僕は確信している。当ブログを読んでいる賢明なる皆さんは、この映画を見ていない。それどころか興味ゼロである。
(もし「観た!」という人がいたら…、いや、まさかいないと思うのだが、もし万が一「観た!」という人がいたら、コッソリと名乗り出てはくれないでしょうか)
 ともかく、そんな皆さんに問いたい。皆さんの冷淡なる黙殺をよそに、この映画、結構ヒットしているのである。
 本当は、気になるんじゃないだろうか?。「男たちの大和」がなぜウケているのか、知りたいんじゃないだろうか?。
 というわけで、老婆心ながら僕は毒見役をかって出ることにした。【皆さんを代表して】、僕がこの映画を観る。言うまでもなく僕は、映画を評するのに必要な最低限の知識もセンスも持っていないが、しかしきっと大丈夫である。僕がシッカリと評価を下すので、みなさんはこれを【定評】として認識してよいと思う。

 さて「男たちの大和」鑑賞の3時間前。周到なる僕は、事前の準備として「YAHOO MOVIES」のユーザーレビューを閲覧してみることにしたのだが、十数篇読んでみて、俄然気持ちが昂ぶってきた。
 評判が異常に良いのである。
 曰く「素晴らしい映画!」「抜群の出来!」「史上最高の傑作!」。
 また、ほとんどの人が「泣いた!」と書いている。「上映10分で涙がボロボロ」とか「男ながら涙涙」とか。
「泣きすぎて頭が痛くなった」という人もいる。僕は、頭は始終痛くなっているが、【泣きすぎて】というのは未経験である。
 これはとんでもない映画かもしれないと思った。
 若干の気がかりは、「てにをは」の誤り、誤字、主述の不一致、無意味な反復、慣用句の誤用など、ほぼ全員の文面(ふみづら)がいたく乱れていることであったが(僕は初め、書き手は全員子供かと思った)、それとて全員が興奮状態で書きとばしていたと考えればあり得ることだ。
 映画自体が良すぎたのである。映画を思い出し、感極まって感極まって感極まって(矢沢的反復)、感極まって書いているから筆が乱れたのだ。
(中に【右寄りの人たちには左巻き映画に見えて、左巻きの人たちには右寄りに見えるあたり、この作品は真ん中ってことなんでしょう】という評があり、これだけは最後まで意味を掴みかねたが、僕に分からないだけで、これもなにか深い意味があるのだろう)。

 「千日前国際シネマ」の館内に入り、辺りを見回すと、こんなもんか?と思うほど人が少ない。レビューでは立錐の余地無しということだったが。
「あれ?」と僕は思った。しかしまあいいだろう。人が少ないほうが観やすい。
「あ、ハンカチ忘れたわ、どないしよ」と嫁が言った。泣く気満々である。
 そして館内が暗くなり、本編が始まった。






 観終わった。
 が、率直に言って、何か書く気にもならん作品だ。
 だから嫌なんだ、映画は。という思いが頭をよぎった。
 しかしここまで読んだみなさんのなかに、私の批評を楽しみにしている方もおられるかもしれない。
 だから多少なりとも、思ったことを書いておこうと思う。
 正直に白状すると、泣きそうになる箇所がないでもなかった(嫁はケロッとしていたが)。
 しかしね皆さん、朗らかな十代の女の子がやね、慕っていたオバチャンの死に直面するとか、最後原爆で死ぬとかすれば、そんなの泣けて当たり前ですよ。泣かないほうがおかしいんじゃないか。
 しかし言うまでもなく、【泣ける】ことと作品の良し悪しとは、全く別の次元の話である。
 ところが特に昨今、私の印象では、この当たり前のことが日本人の共通前提になっていない、【言うまでもなく】どころの話ではないんじゃないか、という不気味な感じがある。
 音楽であれ、文学であれ、映画であれ、【泣ける】ということを金科玉条に据えた作品のなんと多いことか。その結果世間では、どうやら【泣けるかどうか】が作品評を決定する最大の要因になりつつあるように見える。これ、実に不気味である。
「男たちの大和」なる映画は、その不気味さの中心に位置している。
 繰り返すが、【泣ける】ことは作品を構成する一要素であって、それ以上でもそれ以下でもない。また、誤解なきよう言っておくが、僕は【泣ける】ことが悪いと言っているのではない。【泣ける】作品を良い作品だと即断する軽挙妄動を問うているのである。
「金八」で僕は泣いたかもしれないが、そのことと、「相田みつをを全員で暗誦しやがって、実にくだらん」という怒りとは、全く矛盾しないのである。
 問題はどのように、あるいは、なぜ【泣ける】か?、ということだ。【泣けるかどうか】にこだわる奴は、犬がお使いを果たしても、おもんない芸人の努力が実っても、弁護士が完走しても、バカな男女の恋が成就しても、泣けさえすれば【良い作品】と言うだろう。要は、なんでもいいんだろうよ。
 だが、そういう奴ほど信用のできない人種はない。僕は、こう考えてみる。【泣けるかどうか】にこだわる奴は、【踊れるかどうか】にこだわって、パラパラに興じる奴とどこか違うのか?、と。おそらく同じであろう。つまり、それらの人々にとっては、己の生理的反応のみが絶対的基準で、作品の判断は、生理的反応の有無で決まる。生理的反応ありきの作品評価。民度の問題だと言ってしまえばそれまでだが、この情況はお粗末に過ぎる。
「いい作品だから泣けた」のではなくて、「泣けたからいい作品」なのだ。これは極論すれば、作品のテーマなりプロットなり演出なり構成なり音色なりリズムなり、クリエイターが心血を注いだほぼ全ての要素を、それが【泣ける】ポイントでない限り、見逃す可能性があるということだ。多分、微妙なものは全て見逃す。
 あ、書いているうちにどんどん、これは重大な現代病じゃないか、という気がしてきた。

 しかし話を戻そう。ともかく、この作品は【あざとい】の一言に尽きる。この作品の構成の稚拙さについて、あるいは細かくここがオカシイなどと指摘する気はとても起こらない。【あざとい】で充分である。全てが【あざとい】。音楽は久石譲ですか。まさに【あざとさ】の巨匠ではないか。一体、彼がこれほど支持され、巨匠扱いされている理由が僕には分からない。下品。
 何にせよ、こういう映画が【良い】とされるのであれば、映画は芸術とはなんの関係もないことだけは確かである。全く無益な時間を費やしてしまった。ただただ日本人の現代病を確認するために存在するような映画だ、と言えば皮肉にすぎるだろうか。
【小心】を巡る三章~白昼の代々木公園を抜けて
すぎ

 現時点で視聴登録者が610万人を突破したというGyaO(http://www.gyao.jp/)であるが、そのなかで【最も気になるコンテンツ】と言えば、やはり杉作J太郎(本名、杉恭介)の映像ブログ「男の世界を求めて」でしょう。
 断っておくと、私はJの漫画もエッセイも読んだことがなく、さらには最近彼は映画を撮っているそうですが、それも観ていません。つまり私はテレビタレントとしてのJしか知らない。おそらくこれはJについて何も知らないのと同じです。
 その私がJに関して稿を起こそうというのだから、実に思い上がった、乱暴な話です。あるいは、Jマニアの方々にとって見当外れなことも書くかもしれない。
 しかし、【ま、いいじゃありませんか】(J口調で)。何も知らない男が書くJ論があったとしても、それはそれで一興だと思いませんか?

 さて、私は全29編、時間にして3時間20分にも渡るこの映像ブログを全て見ました。
 その上で改めて考えてみて、私はこれが面白いかどうか分からない。面白いと言えば面白いが、つまらんと言えなくもない。
 しかし事実として、私はこれを一気に見てしまった。
 なぜでしょうか。
 客観的に言うなら、J周辺のサブカル人脈(こういう言い方はもはや意味を成しませんが、ま、いいじゃありませんか)の出演をおもろがる人もおられるでしょう。ブログ後半は、ほとんどJ監督作品のメイキングの態を為すので、映画出演者であるところのリリーフランキー、ロマンポルシェ、宇多丸、横山剣、みうらじゅん、根本敬らの、いわゆる【濃いメンツ】が登場し、大変賑々しい装いではあります。上記のメンツを「豪華!」と見る方々にとってはたまらんものがあるでしょう。
 また、時折見せるJの独り語り、そのグルーヴ感たるや素晴らしく、女衒さながらの軽薄さを撒き散らしながら、安定感抜群の逸品であります。これに聞き惚れる方もおられるでしょう。
 しかし私が最も魅かれたのはそういうところではなくて、そのポイントは実は冒頭にあるのです。
 探り探りの、覚束ない手つきで収録された1回目の映像につられて、私は全部見てしまった。
 大雑把に言えば、それは次のようなものです。
***************
 8月の強い日差しを避けるように、代々木公園の木陰を急ぐ面相怪しきこの男、杉作J太郎(本名、杉恭介)。つまらぬ軽口を叩き、うっすらと頭に汗を浮かべながら、【妙に急いで】いる。
 木陰を抜け、噴水の脇を通り、代々木体育館へ向かう。目指す先には、「モー娘。コンサート」への期待感にざわめく漢(おとこ)達の群れ、群れ、群れ。
***************
 …と、そういうことなのです。ただ、それだけです。
 しかし、私は見入ってしまった。なぜならJの奇妙な急ぎように、なんとも心引かれるところがあるからです。
 彼は映像中で、【待ち合わせの相手が既に到着しているから】急いでいると言っています。これは、明言している。
 しかしながら見たところそうではないのです。彼は明らかに別の理由で急いでいる。
 Jは【デジカムを自分に向けて、独りで喋りながら歩くのが恥ずかしい】から急いでいるのです。疑いなくそうだと思います。そしてその何やら縮み上がった様子は、とても演技とは思えない。
 私はここにJの【小心】を見るわけです。
 実際に「独りでブツブツ喋っていると、デンジャラスだと思われる」とかなんとか、自分の行為に対する違和感を口にしているし、何よりも目がおかしい。あれは、イッた目ですね。
 言うまでもなく、Jは素人ではないのです。TV業界に長く関わり、「トゥナイト2」等でレポーター歴も長い。そんな男が「USEN」に頼まれてこの仕事を請け負い、その第一回目にこの企画を選んだのです。
 つまり【こうなること】は分かっていたはずです。にもかかわらずJは、人目を気にしてキュウキュウとしている。Jは、本当は(代々木公園を)走り抜けたかったに違いない。しかし【手ブレ】を気にして、走るに走れなかったのです。
 例えば、同じことをワッキーでも原口あきまさでもよい。そういう神経の図太さだけはガマ蛙なみのコンパ芸人にやらせてごらんなさい。おそらく堂々たる構えで務め上げたと思います。
 しかしJにはそれができなかった。
 私は、この一事はJの人となりをとてもよく表していると思うのです。
 これに比べれば、彼自身がどんなに「モー娘。LOVE」を力説しようと、いい年したおっさんがアイドルに入れあげている、その【意味】なんて何程のことはないと私は思います。第一にそれはありふれているし、穿って見れば、それは【あえて】やっているようにも思える。
 でも【デジカムを自分に向けて、独りで喋りながら歩くのが恥ずかしい】という感覚は、【あえて】ではない。【意図するしないにかかわらず】滲み出てしまったのです。
 恥ずかしいならやめればよかったのです。これは推測ですが、映像ブログの内容はほぼJの裁量で決められるはずですから。しかしやめない。根本敬流に言うなら「でもやるんだよ!」というところでしょうか。
 一般的に言って【デジカムを自分に向けて、独りで喋りながら歩く】ことは、奇妙なことです。ところが業界では、それはさほど奇妙ではありません。十分にあり得ることです。【慣れ】に従って、奇妙が奇妙でなくなるのです。
 非常に恐いことだと思います。奇妙なことを奇妙だと感じなくなったということは、自分が奇妙な人間になったということに他ならないからです。
 だが少なくともJは、奇妙を奇妙として意識し続け、意識しているにも関わらず自ら選んでそれを行い、勝手に苦しい思いをしている。サービス精神と【自分内のルール】との間で鋭い葛藤があります。
 だから私は、これはある種、表現の品性に関わる問題だと思うのです。
 勿論、これは言うほど大きな問題ではないかもしれませんし、その可能性は大いにあります。私の単なる深読みかもしれない。しかし、深読みもできない表現になんの魅力がありますか?

 そもそも「男の世界を求めて」とは何とも仰々しいタイトルです。こういう男臭い物言いは、それが真剣であれオフザケであれ、極めて類型的なものです。「男とは」「男たるもの」…そういうテーマを好む語り手、表現者は古今東西腐るほどいます。そしてそのうちの九割は、必ずどこかで聞き覚えのあるもので、ハッキリ言って退屈です。
 ところがこのコンテンツのなかでは、タイトルに反して、Jはそういう類の表現はほとんどやっていないように見えます。
 これは【竜頭蛇尾】というような問題ではないと思います。私の感じでは、Jの言う【男の世界】が通俗的な用語法としての【男の世界】と異なることが原因です。彼がヤクザ映画を好むというベタな感覚を持っていたとしても、です。
 Jはいわゆる【男の世界】を求めているのではありません。彼はなんだか言い表しにくい、第三者にとっては訳の分からない倫理を求めている。それは彼の考える最良の規律でしょうが、私はそれを【J倫理】と呼びます。彼だけが遵守しようと努め、勝手にがんじがらめになっている美学的なルール、【縛り】のことです。そして私の考えでは、その【縛り】は、おそらく【小心】という繊維で紡がれている。
 自分勝手に設けた(あるいは設けさせられた)ルールがどんどん張り巡らされて、Jの行動は理不尽に制限され、いきおい不自由な思いをする。私が感動するのは、もしくはJがある層から支持を受けているとすれば、そのルールの張り方や、そういう馬鹿な仕組みによってです。

 白昼の代々木公園を抜けると何が見えたか。もちろん、ステロタイプな【男の世界】なんて見えやしない。汗を吹き上げ歩きに歩いて、ようやく掴んだ尻尾の如きものは、イビツな形の、イビツゆえに胸をうつ【J倫理】の影である。
 しかし、一体誰がそのイビツな影を足蹴にできるだろうか?
【小心】を巡る三章~山賊に礼を言う男
ぱたー

 枚方の子供らのヒーローと言えば無論Kさんであるが(ゴルフ狂ファイルシリーズ「懐かれるということ~その一」参照)、そのKさんが口を極めて言うには、「エロ動画口止め男」の称え名も勇ましいHさんの【子供の扱いよう】たるや、目を見張るものがあるらしい。
 私とKさんはその日、緊急にクラブ在庫の移出をするために枚方から大阪市内にあるHさんの店へと車で向かっていた。その車内でKさんはHさんを俎上に上げて、いかにも機嫌よく、その奇行をあげつらい続けたのだった。
 曰く…。Hさんのなかには大人・子供の区別がない。大人であろうと子供であろうと男であろうと女であろうと、すべて客という唯一の【人格】として認識し、扱うので、子供に対しても「いらっしゃいませ」に始まり、「はい」「そうですか」「お待ちください」などと常に形式ばった敬語で話し、親しみやすさのかけらもない。換言するなら、サジ加減は一切ないのだ。
 むしろ子供の方がタメ口を利いているという。「おっちゃん、これ見せて」「分かりました」「便所どこ?」「ちょっと待ってください」などと、そのオカシなやり取りはまるで【坊ちゃんと年老いた執事】のようだというのだ。
 Hさんならあり得る話だ、と私は思った。私もHさんの奇行はさんざん目の当たりにしている。
 そういう馬鹿話をしつつ、Hさんの店に到着した。
 
 ドアを開ける直前、なぜか複数の子供の嬌声が聞こえ、私が店内に入ると声はピタリと止み、3人の子供(小学校の中学年くらいだろうか)がこちらに引きつった顔を向けて、立ちすくんでいた。各々の手にはパターが握られている。
 Hさんはと言えば、その子供らを少し離れたカウンターの内部から虚ろな目つきで眺めていた。
 私は不審に思ったが、車内での話題を振り返り、夢心地の既視感に高ぶった。
 後から入ってきたKさんも私と同じ心境だっただろう。私とKさんは目線を一度、チラと合わせた。
「お疲れさん」
 私とKさんがカウンター内に入ると、Hさんが憮然とした表情で言った。
「いやあ、意外と早う着きましたわ」「今日、相当寒いですね」と私らは口々に言ったが、気もそぞろであった。子供らがパターを持って何をしでかしていたのか、気になって仕方がない。
 私はバックルームへ入り(と、言っても店内を見渡せる位置だが)、タバコを吸った。HさんとKさんは、カウンター内で先日のコンペの話をしていた。砂を噛むような味気ない会話だったが、ひそかに私とKさんが子供らを意識し続けていたのは言うまでもないだろう。 
 子供らはしばらく固まってヒソヒソと話していたが、明らかに店の関係者である私らが来て気まずい思いをしたか、そそくさとパターを売り場に戻し、逃げるように退散した。
「ありがとうございましたっ!」(終わりに向かってだんだん強く!いわゆるクレシェンドな言い方で)とHさんが言った。大いなる怒気を孕んでいた。
 ただならぬ情況であることは誰の目にも明らかだった。私とKさんは再び目を合わせた。(Hさんに)聞きたいことは山ほどある。まず何から聞こうか、という目配せであった。
 だが、幸いにもHさんの方から切り出した。窪んだ目をギョロギョロと泳がせて、矢継ぎ早にHさんは憤りを吐き出した。完全に頭にきていた。怒りすぎてHさんの言うことは支離滅裂であったので翻訳・解説しよう。
 簡単に言えば子供らは、Hさんの店を不当に占有、私物化して【わりあいに本格的なパターゴルフ大会】を開いていたのだった。

 中古ゴルフ屋の店内を知らぬ皆さんのために、少し説明しておこう。
 どこの店でも、パター売り場には客が自由に【試し打ち】ができるように【パター室内練習用マット】が置いてある。街金の社長室に必ずあるアレである(知らんけど)。おっさんの客達はそれを用いて、あ、このパターは左に引っかかる、これは最後のひと転がりが無いなどと能書きを垂れながら、購入するパターの品定めをするのである。
 無論Hさんの店にもある。
 子供らは、このパターマットをフェアウェイに見立てて、パターゴルフ大会をやっていたというのだ。
「完全に営業妨害や!」Hさんは語気を荒げた。
 聞けばこのパターゴルフ大会、相当悪質なもので、最終的にパターマットのカップを目指していくのだが、第一打、いわゆるティーショットは、店舗内のあらゆる場所から打つのだという。
【レディースコーナー】を、【玄関マット】を、【カウンターのすぐ脇】を、【グローブなどの小物売り場】を、子供らは仮想のティーグラウンドに定め、そこからフロアを縦横無尽に、ゴロゴロリンとボールを横断させて、パターマットにカップインさせる打数を競うらしい。
 昔、「内P」で芸人の家に押しかけて、室内でドッタンバッタンと野球やPKやバーベキューをやっていたが、それに似た趣である。要は我が物顔で人の敷地に居座り、狼藉の限りを尽くしているわけだ。当人たちは新しい遊びを思いついて楽しゅうて堪らんというところだろうが、なんとも大胆不敵な子供がいたものである。
 しかしさらに驚くべきことは、Hさんは、そんな山賊のごとき子供らを諌めるどころか、黙認していたというのである。
 呆れ果てた話である。
 慣れ親しんだ校庭を駆け回るかのように、子供らは店内を颯爽と歩き、ショットの出来不出来に一喜一憂しながらプレイしたのだろう。しかしHさんは、そんな彼らのハッチャケぶりや目の前や足元をゴロゴロと転がるボールを、時折細かい舌打ちや咳払いはしたかもしれないが、大筋はただただ恨めしげに見ていただけなのだ。
 だが、なぜHさんは何も言わなかったのか。謎である。先程、私はHさんの言い分は支離滅裂だったと書いたが、一応ここに列挙してみようか。読めば読むほど謎は深まるだろうと思うが。

 曰く「この狼藉は昨年末に始まり、これで3回目。1回目に注意しそびれたので、今更言いにくい」
 曰く「中の一人が、常連のおっさんの息子かもしれない。一度連れ立ってきていたのを見たような気がする」
 曰く「中の一人の親か兄貴がヤクザかヤンキーかもしれない」
 曰く「最近の子供は人に注意されるとすぐキレる」
 曰く「中の一人がまあまあデカイ」
 曰く「武器(パター)を持っている」
 曰く「一応ゴルフをやっている(ので憎みきれない)」
 曰く「もしかすると、使ったパターを買ってくれるかもしれない」等等…。

 これら素っ頓狂な物言いに対して、いちいち突っ込むことは勿論できる。しかし私が最も感銘を受けたのは、かかる暴徒(子供)に対してでさえ、Hさんが「ありがとうございます」と言ったことだった。自分の店が荒らしに荒らされ、営業を妨害され、大人の尊厳を踏み潰され、内心ハラワタ煮えくり返りながら、それでも「ありがとうございます」と、振り絞って言ったことだった。
 断腸の礼式。Hさんは少なくとも3回それをやっている。
 キリスト、あるいはマハトマ・ガンジーの域に達した、とはいささか言いすぎだろうか。
【小心】を巡る三章~常に不意打ちを警戒する男
みなみ

 例えばあなた、街頭でティッシュを受け取りますか?
 私はほとんど取らないですけれども、どうやら世の中には【絶対取る】という人もいるらしい。チラシならチラシを、ティッシュならティッシュを100パーの確率で受け取る。
 なぜでしょうか。
 強欲の為か、慈悲のためか、あるいはそれ以外の心象によるのか。
 これは私には分かりません。
 しかし、かつてただ一人だけ、私にその問いを考える上でのヒントを与えてくれた男がいたのです。

 福島県出身で、いつまでも訛りの抜けぬYという男がいました。
 Yは一風変わった男で、例えば彼と夜のミナミを歩くとしましょう。そうすると遅々として進まないんですね。下手をすると2,3百メートル歩くのに30分近くかかったりする。
 なぜか?。風俗店のキャッチに呼び止められるからです。今は条例のおかげであまり姿を見ませんけれども、昔は通りに黒スーツがウジャウジャと溢れていました。彼らは誰彼かまわず声をかけまくる。それでYは、声をかけられる度に立ち止まって、いちいち話し込んでしまうんですね。
 Yは(キャッチに)捕まりやすいと言えば捕まりやすい、そういう人(にん)が原因だと断ずることもできますが、それだけではない。合わせなくてもよいのに話を合わせたり、答えなくてもよい質問に答えたりするYの方にも、話が長引く責任の一端はあるのです。
 もし、そのとき偶然にも風俗に行きたい気分だったのなら渡りに船だ、必要なだけの話をしてサッサと行けばよい。でもそうでない限り、普通は無視するか、適当にあしらいそうなものです。
 だがYは決してそうしないのですね。
 断っておくと、好き好んで話し込むのではないのです。それどころかYは、キャッチに話しかけられるのが嫌で嫌で仕方がない。それが理由で「もうミナミには行きたくない」と弱音を吐くほどなのです。本気で、嫌なのです。
 それなら尚のこと、無視すればよいとじゃないかと普通の方は思うでしょう。でもYは断じて違うのでした。ある理由に拠って、Yは決して無視しないし、あしらうような態度を取りません。
 その理由は明快です。キャッチを無視するのは【無礼】【危険】だからです。それは、僕は突き詰めて聞いたことがあるのです。
 Yは遠い目をしてこう言いました。
「あのな、普通さ、人に声かけてさ、無視されたらムカつくべ。akaだってムカつくだろ。だからよ、俺は一応よ、初めて喋る相手だけどもよ、キチンと話だけはしとかなきゃって思うんだ」
 Yは次のように考えていました。仮に我々がキャッチを無視して通り過ぎたとしよう。しかし、たまたまそのキャッチが滅法気の荒い人物で、しかも運悪く、虫の居所がマックスに悪ければ、シカトされたのを恨みに思って【必ず殴りかかってくるよ】と。

「そしたらaka、どうやって対抗する。対抗できんべ?。俺ら通り過ぎて、背ぇ向けちゃってるかんな。バック取られちゃってるよ。もう普通によ、【後ろから頭殴られるべ?】。そしたらaka、絶対ビックリして倒れてよ、後は好き放題蹴られるべ、半殺しだな」

 この【後ろから頭殴られる】ということをYは非常に気にするのです。とにかくもう【後ろから頭殴られる】のだけは勘弁だ、と。それは最も危険な状況であって、かつ絶対に避けられない。そして、喧嘩は【先手】を取られれば必ずやられる。【後ろから頭殴る】、それ以上に効果的な【先手】はなく、逆に言うと、それ以上に悲惨な【後手】はないのだと、Yは力みかえって説くのです。

(その数年後、前田日明が安生に不意打ちでやられたのを聞き、私はYの主張の正しさを改めて思い知った次第で…)

 しかしYが【先方とキチンと交渉してくれている】おかげで、少なくとも私は半殺しにならずに済んでいる。だから私はYに感謝こそすれ、彼の行動をバカにしたり、歩みの遅さにイライラした素振りを見せたりするのはもっての外だと、そう言うのです。

「ちょっと頭使って考えてみ?。あの人らはな、人に無視されて無視されて、無視され続けてよ。ストレス多いべ?。あれは相当たまってるな。いつキレてもおかしくないべ。おまえは、絶対そんなことないって思ってるかもしれんけどよ、俺には分かるべ。おまえが思ってるほどよ、あの人らがキレる確率は低くないべ」
 
 私はYの話に大変感銘を受けました。そして私は直ちに謝り、今後一切Yのことをバカにしたり、苛立って舌打ちをしないことを誓いました。
 それ以後私は、Yのギリギリの【言い訳】を虚心で味わうことにしたのです。
「で、ですから、僕らはこれから、ひ、人に会う予定が…、つ、詰まっているので、今回は、あの、人も待たせちゃって、今から急いで行く途中なんですね。だから、こ、今回は、あのどうしても、僕らは行かないと、あの、もういいすか?、え?、あの、居酒屋なんですけど、はい、はい、でも、かなり前から約束をしていまして、ええ、そうですね。ま、マジメな話になると思うんですけど、就職とか、そういうことも話すと思うんですけども、あの、もう、少し遅れてきてしまってるんで、もういいすか?」
賀状について
 賀状が来る枚数が少ないような気がしている。
 とりあえず今日まで首を長くして待ってみたが、一向に数が伸びる気配がない。
 私自身、中学の頃から賀状をほとんど出していないのだから、数の少なさを嘆くのはお門違いである。身から出た錆だ。
 でも、だからこそ私はこう思っているのだ。そんな私の不精に腹も立てず愛想もつかさず、貴重な年賀ハガキの一枚を私に費やしてくれた慈悲深い人は、これは天使のような人に違いない。
 私にはこの【天使な方々】の恩に報いる義務がある。その人々とは一生友人でいたいと私、勝手に思っているのであります。
 その証拠を挙げよう。小学校の同級生で、現在までずっと私に賀状をくれているNという男がいる。Nは下の名前を池田先生につけて頂いた(真偽のほどは定かでないが、)というのが自慢の創価学会員であるが、彼は岡山、私は大阪と距離こそ隔たってしまったが、数年に一度電話で話しては昔話に花を咲かせて、旧交を温めるのである。彼とはおそらく一生この関係が続くだろう。
 
 麗しい関係である。数年に一度というそのタイミングが常に国政選挙の時期に重なっているのは、単なる偶然に過ぎない。

 賀状と言えば。
 一昨年の話だが、親父から賀状が届いた。
 その前年に還暦を迎え、職場(消防署)を退いた親父の文面は胸に沁みた。
 だが、芝の緑が映えるゴルフ場と思しき写真の下に、次のような短歌が添えられてあった。

 還暦の 刻(とき)を迎えて 今も尚
      ボールと芝に 心ときめく 


 なんてグッとくる歌だろう。
「刻(とき)」などと細工を弄しているわりに、下の句の乱雑さ、軽薄さといったらない。「心ときめく」なんて、まるで少女のようではないか。「ま、これでええか?」と諦めたフシすらある。
 私は、あ、イノセンスとはこういうことか、と目から鱗の落ちる思いであった。これに比べれば、子供のイノセンスなんて屁のようなものだ。だって悲しみがないじゃないか。
 また、このような素人短歌を賀状に刷っておきながら少しも身のすくんだ様子がない、その臆面の無さも頼もしい。
 私は取るものも取りあえず電話をした。
「親父、あけましておめでとう。ところであの短歌が素晴らしいね。大変な才能だ。純粋無垢な才能がとうとう開花したな。年明け早々、おれは感動してしまったよ」
 親父はうんうんと頷き、おもむろに、じっくりとした口調で「お前もようやく短歌の良さが分かるようになったか」と言った。

 その後、親父は味をしめ、短歌詠みに没頭し始めたそうだ。
 数ヶ月後、「月刊消防」なる雑誌(読みてー!、「月刊消防」)に投稿した親父の短歌が金賞を受賞したという。
 喜びに弾む声で親父から電話がかかってきた。
 その短歌は、親父の退職祝いの席で、たくさんの後輩たちが両手に余るほどの花束をくれた、その刹那の心境を歌ったものだった。
 残念ながら、私はその短歌の大部分を忘れてしまった。だが結語だけは覚えている。
 確か…、

***** ******* *****
         ******* 胸いっぱい

 
「親父、ずいぶん腕が上がっているな。進化しとるよ」と私は言い、「だいぶ要領を得たろう」と親父は自慢げに答えた。
追記めいたものを
 シャブと言えば、三田佳子の二男、祐也が「YUYA」として歌手デビューするとか。
 事件当時、私はそれ自体については何の感想もなかったが、ただ一点、マスコミを席巻した「三田二男」という【文字】の、そのフォルムの特異さにだけは感動した覚えがある。
 その後、「三木二郎」という水泳選手(個人メドレー)が「世界水泳」に登場した。そのとき、これは私だけの印象だろうか?、彼の成績や容姿とは全く無関係に、【二番煎じ】という感じがあった。

 それにしても、百歩譲って歌手デビューはよしとしよう。だがなぜ「YUYA」なのか。「三田二男」でええやんけ。というより、それ以外の選択肢などありはしない。私の考えでは「三田二男」という刻印を受け入れてはじめて、彼は己の過去と全的に向き合い、真っ当な人間として歩き始めることができるのであって、第二の人生の、そのド頭から誤魔化しにかかるとは何事か。こういう態度から僕が分かるのは、「結局この男は何も分かっていない」という一事である。唐十郎のやったことは徹頭徹尾徒労であったと、この男ダメを押しやがった。恩を知らぬにも程があるだろうが。

 こうなると彼の根源的なダメさは、シャブをやったことでも歌手デビューをしたことでもなく、「YUYA」と名乗ってしまう、その心的姿勢からより鮮明に見えてくるのではないか。
 本当に、私には彼が「三田二男」と名乗らない理由が皆目分からない。こんなにインパクトのあるデザインなのに何の不満があるというのか。
 唐十郎ならぬ、今度は大崎常務に説教(恫喝)してもらうしかないようだ。
「おまえ、(この期に及んで)カッコつけたいんか!」(クグもった早口で)。
夢のない話
 メガネ強盗の裁判が始まっていたようだ。
 http://www.nikkansports.com/ns/general/column/asozan017.html
 僕はこの事件をspeedometer.氏のブログで知ったのだが、第一印象としては「化け物(妖怪)」だと思った。眼の化け物。メガネを欲する眼の化け物。喉から手が出る。
 つまり彼は眼である。彼自体が眼なのだ。そんな彼の、唯一にして最大のアビリティは視力であるから、より【よく見えるため】にアレコレ行動するのは当然である。【よく見えること】への執着が強すぎるために、奇しくも、当然あるべきコストパフォーマンスへの、あるいはリスクマネージメントへの【視線】が遮断されたのは、なんともアイロニカルな話であるが。
 彼のやったことが法的にマズイのは当然として、不謹慎の謗りを恐れずに言えば、私はこの男は見どころがあると思った。これは文字通りに解釈してもらって構わない。ここまで視力にこだわり、眼と自己同一化できる奴は稀有であるが、アイデンティファイの対象が眼だからオカシイ話になるのであって、例えばこれが筆やアルトサックスや彫刻刀であったとすれば我々は少しもオカシサを感じない。現に、音楽やアートの批評において我々はそれに近い物言いを度々目撃してきたではないか。
 したがってモノに対するアイデンティファイは、それ自体をして、もしくはその強度を論拠にしては容易に批判しうるものではないだろう。それを批判するには、また別の物差しが要る。

 ところで、メガネ強盗の自宅からシャブが見つかったという。面白さのカケラもない話だ。私は前言を翻さなければならない。こんな男は勝手にシャブ地獄にハマって破滅すればよいので、酌量の余地は全くない。
 整理しよう。①彼は【鮮明に見えること】に並々ならぬこだわりがあった。これはよい。②メガネあるいはコンタクトレンズのなかで最も自分に合う(度&デザイン)ものを探求した。これもよいだろう。③人を襲ってメガネ、コンタクトレンズを強奪した。これがいけない。しかし私が魅かれるのは②と③のハザマに存在する謎であって、これをシャブなどという即物的な理由で証明されてはたまらない。無粋極まる種明かしだ。

 昔、大塚英志が次のようなことを書いていた。オウム真理教の最もラジカルな点はドラッグを用いた覚醒と修行による覚醒を等価と看做したことだ、と。あるいは鶴見済(「完全自殺マニュアル」でお馴染み)の新しいところは大抵の悩みは抗鬱剤を飲むか人格改造セミナーに通うかすれば解消しうると看做したことだ、と。
 大塚にとってはオウムも鶴見も【身も蓋もない】という点において同じ事例であった。つまり彼はそれらの【方法】の新しさやラジカルさを肯定しながら、なおかつそれを否定的に捉えていたわけである。
 【心の闇】なるものを、ドラッグやシステマティックな教育プログラムといった科学的な要因によって消滅させうるとする考えは、大塚にとって耐え難いシロモノだったに違いない。
 この大塚の考えをナイーブの一言で片付けることは容易だろう。事実、大雑把に言えば、かつて宮台などはこうした大塚のナイーブさを、また、ナイーブさがもたらす不徹底さをマトに大塚を嘲笑してきたといってよい。
 私にとっては、オウムや鶴見がラジカルかどうかなんて、ハッキリ言ってどうでもいい話だ。そんなものに一喜一憂している大塚は自己劇化が過ぎると思う。しかしこのメガネ強盗に関しては、私は進んでナイーブに振舞うつもりである。そこは一歩も譲れんという気がする(誰に、何を譲れぬのかは知らないが)。
 断言するが、メガネ強盗の理不尽極まる自己推進力の源泉がシャブだなんて最悪だ。

 化け物は実は人造人間でしたなんて、つくづく夢のない話だよ
猫の墓参り
ねこ

 11月26日は昔飼っていた猫の命日なので、人間として当然のことながらお墓参りに行って来た。
 JR宝塚線のDという駅から10数分ほど歩いたところに共同墓地がある。僕はここを訪れるのは3度目だが、妙に心引かれる場所なので、それについて書いておこう。
●駅を出るとまず、セメント工場やチタン加工場といった第二次産業を象徴する建造物の、パステルカラーの太い煙突や湾曲するパイプが見られ、その遠景(借景として、と言うべきか)に、盛り上がって沸くような紅葉に染められた山々が望める。共同墓地を目指し歩き始めてすぐ右手に美味い塩むすびを出すヒナびた茶屋があり、僕の知る限り、駅周辺に飯屋はここただ一件のみである。(一度ここで飯を食い、おばちゃんに「猫のお墓参りに来たんです」と言うと、カルト信者を見るように眉を顰めていた。まあ、それも当然のことである)
●西に向かってしばらく歩くと、JR線と平行に流れる川に突き当たり、その川に沿って桜並木の歩道が続いている。河原側の、柵状に伸びる手すりはザラザラに錆び付き、それを乗り越えるように、ススキが背の高い雑草に混じって無造作に生えている。川では鴨が群れを為し、流れに抗い、ひとところに留まりながら鳴いている。
●歩道から左に逸れると国道に出る。その右手の丘に、高い柵に囲まれた(尼崎市が設置する)児童養護施設がある。敷地内に植えられたクヌギが柵越しにドングリを落とし、国道脇にそれが散らばっている。
●そこから数十メートル言った左手には、急な斜面を登った先に不自然と思われるほど広大な駐車場を完備した老人ホームがあるが、僕が見たときは、車は殆どとまっていなかった。
●児童養護施設と老人ホームの間を縫って行った先に、明らかに買い手がつかぬと思われる歪な形の空き地があり、その最奥に共同墓地を示す碑がポツンと建っている。

 つまりこの場所には、都市部で疎外される傾向にある【社会的存在】が、【自然】と押し競をするように圧縮されている。勿論これは僕の感傷的な思い込みにすぎないし、また、たとえ思い込みに一定の妥当性があったとしても、僕にこの状況を【眉を顰めて】見るような資格はない。だが、一種異様な圧迫感があるのは事実である。
 しかしながら僕はこの圧迫を嫌いではないし、それどこか寧ろ奇妙な懐かしさを覚えている。また、こういうところだけに墓地の【彼岸性】や【非日常性】が際立ち、なればこそ僕は墓参に進んで来ているのだと言えるかもしれない。

 ここに初めて来たとき、墓参が終わり、嫁が用を足したいと言った。だが、しかるべき場所は周囲に見当たらない。そこで仕方なく(一方で僕は興味シンシンに)老人ホームでトイレを借りることにした。
 受付の女性に事情を説明すると、まず「どうやってここまで来たのか?」と聞かれた。僕らが「歩いてきたのだ」と言うと、その女性は驚いた表情を見せ、後ろに控える上司と思われる人物に相談し、その結果快く(?)「どうぞ」と言ってくださった。
 僕は嫁を待ちながら内部を見渡した。車椅子に乗った老人が白衣の女性に押され、笑いながら僕の前を通過した。耳を澄ませば、奥のほうから呻きとも叫びとも笑いともつかぬ声が断続的に聞こえてくる。僕は正面の壁を見据えた。立派な、大きな額がかけてあった。そしてこれは紛うことなき事実だが、額の中では流麗な草書体の【夢】という文字が躍っていた。
人をリスペクトする人たち「完結編」
(まず前々回、前回とUPした「人をリスペクトする人たち~その2」「~その3」を読んでね)

 なべは相手役のラルクに背後から忍び寄り①、ラルクの肩を揉み②、次に揉み手をするような手つきでニヤリと笑いながら③、こう言いました。
「今日(きょう)は?」

 いろいろ言いたいことはありますが、まず所作について整理しましょう。①②③、どれを取っても相当に下品な動きで、私は断腸の思いとともに心中で呟きました。
「これも無理や…、できん!」
 だが、まあいいでしょう、動きについては。本来、こんなものは各自がフレキシブルにやったらよいので、問題は台詞の方です。これは私の無理を聞いてなべがワザワザ考えてくれたものであり、言うとおりにやらない法はありません。
 それにしても【今日(きょう)は?】か…。と私は心の中で感慨深く反芻しました。無論そこには述語が隠されている。今日はどこへ行きたいですか?、今日はどんなことをしたいですか?。まったく、日本語ならではの便利な言い回しではある。
 【今日(きょう)は?】。それ自体、下品さもなければ可笑しさもありません。しかしみなさん、いきなり人に近づいて【今日(きょう)は?】と言えますか?。
 やはり述語を隠すということは隠すだけの理由があるからで、この場合、隠すことにより卑猥度がUPしていると思えてならない。要するにこの店での接客の本質は、【卑猥なことを言う】のではなくて、【卑猥な言い方で言う】ことである。なべのレトリックはすべてその本質の上に成り立っていて、【今日(きょう)は?】などはそのことを最もシンプルに表した、けだし名言であります。しかし、そうであるならば私に真似できる表現は一つもないのではないか。これらは私の考え過ぎかもしれませんが、しかしそのとき、私にはそうとしか考えられなくなっていたのです。 
 そうすると次の事柄に気づきます。

「俺は【今日(きょう)は?】すら言われへんのか…」

 そう思うと、私は少し考え込んでしまいました。ラルクが「扇子貸しましょうか?」と冗談とも本気ともつかぬことを言いましたが、私は引きつる笑顔を浮かべる(エレファントカシマシ『遁生』より)だけでした。空気の、不自然な重みが店内に感じられました。ここに至って、なべやラルクは内心ハッキリと思ったに違いありません。「なんや、こいつは?」と。当然でしょう。普通に考えれば【今日(きょう)は?】が言えないというのは、【やる気】【仕事ができる・できない】以前の問題です。【病気】の線を疑わねばならないでしょう。
 それまで私は【キャバですか、セクですか…】こそ言わないものの、それ以外の通常の会話(?)は旺盛にやっていました。バイト初日で同僚との関係をこじらせたくはありませんから。しかし【今日(きょう)は?】すら言わない男が他の通常会話(?)を難なくこなすというのは、どう考えてもおかしい。
 私はみるみる憂鬱になりましたが、精一杯の笑みを作って言いました。
「ちょっと疲れたんで休んでいいですか?」

 失意の私はバックルームでタバコを吸い、休んでいました。そこへ「いやあ、疲れましたね」と朗らかに言ってラルクがやってきました。彼なりに気を使ってくれたのだと思います。そして、彼は茶髪の長い前髪をかき上げて語り始めました。
「akaさん、どう?、疲れました?、いや、でも初日やからですよ。ま、ゆっくり休みましょうよ。××さん(なべ)もね、好きなだけ休んできてええっ言うてましたよ。でも、××さん(なべ)ってスゴイでしょ。ものすご上手いでしょ、喋るの。ほんまにね、あんなに上手い人いないですよ。あの人ほんまにこの辺でも有名なんですよ。客メッチャ引っ張っていけるから。契約してるキャバクラのオーナーとかもね、よう言うてますもん。『××君(なべ)にはほんまお世話になってる』って。キャバクラのオーナーがそんなん言うんですよ。すごいと思いません?。ね。昔トラックの運転手かなんかやってたらしいんですけど、なんであんなに喋るの上手いんや(笑)。思いません?」(ラルク)
 ラルクの喋りはさらに勢いを増していく。
「ほんでメッチャ優しいでしょ。あんなに仕事できる人って、普通はもっと冷たいですよ。違います?。せやけど××さん(なべ)はメッチャ優しいでしょ。あんな人いませんよ、普通。akaさん、僕ね。××さん(なべ)のことほんまに尊敬してるんですよ。××さん(なべ)みたいにね、スキルアップして、バリバリ仕事できるようになって、お金稼いでね。ほんで人にも優しいってメッチャカッコええと思いません?。今んとこそれが僕の夢ですね。(扇子を取り出して)これもね、ちょっとでも××さん(なべ)に近づけるかなと思うて買うたんですけど、まだまだですわ、僕なんか」(ラルク)
「いや、△△さん(ラルク)もすごいですよ」(私)
「全然ですよ。足元にも及びませんよ。だからほんま頑張ろうと思ってるんですよ」(ラルク)
 私は、ラルクの話を聞いているうちに憂鬱の霧が晴れていくのを感じていました。なんて素朴な敬意だろう。それにラルクの話には一分の嘘もない。どれほど下品であっても、確かになべは【仕事】ができ、そして優しい。そこについては私も100パーセント同意します。
「そうですね。頑張らんとダメですね」(私)
「そう!、頑張りましょうよ。ほな、××さん(なべ)も一人で寂しいやろうし、そろそろ仕事戻りましょうよ!」
 ラルクはそう言い、意気揚々と私を先導するように歩いてバックルームを出ました。すると店内に壁のキャバクラ情報を立ち見している客がいて、それを見つけるや否や、ラルクはまるで妖精のようにリズミカルに飛び跳ねながら客の背後に回り、チョンチョンと肩を叩き、【キャバですかセクですか?、それとも抜きですか?】と弾けるような若々しい言い方で言いました。

 私はその日、疲れを理由に午前2時までの予定を繰り上げ、0時で仕事を終えました。疲れたなどとは嘘です。【キャバですか、セクですか…】【今日(きょう)は?】も言えない以上、自分はこの店で働く資格がないと感じたからでした。ハッキリと私は辞める気でいました。
 自宅に帰り、すぐ店に電話をしました。するとなべが出ました。
「よく考えてみたんですけど、やっぱり僕には合わないと思ったんで、仕事やめさせてください」
 私は言いました。すると非常に重々しい調子で、なべがこう言ったのです。
「そうか、残念やなあ。折角出会えたのにな
 1日で仕事を辞めたいとヌかす無礼者に対して折角出会えたのにな、か…。
 なかなか言えることではありません。
人をリスペクトする人たち「3」
(まず前回UPした「人をリスペクトする人たち~その2」を読んでね)

「なんか、ものすご難しいですね。もう1回教えてください」。
 私はなべに言いました。初日から、おそらく最も基本的な(のだと思われる)接客様式に躓くということは、事実上【やる気】がないか【そもそも使えない奴】か、どちらかでしょう?。逆の立場なら私はそう考える。だからせめて【やる気】(スキル習得欲)は見せておかなければならぬと思ったのですが、実際は難しいどころか、なべの振る舞いをコピーすることは、私には(徹頭徹尾)不可能だと思われました。
「あ、そやな、いきなりちょっと(口上が)速すぎたな」(なべ)
「そうですよ。初めからそんな高等なテク、出さんといてくださいよ(笑)。そら、いきなり××さん(なべ)と同じようには無理ですよ」(ラルク)
 というような会話を私はボンヤリと聞いていました。すると、なべがこう切り出しました。
「分かった。じゃ、ちょっとずつ覚えていきましょうね。初めは【キャバですか、セクですか、それとも抜きですか】。な、分かる?。【キャバ】はキャバクラのこと、【セク】はセクキャバな、で、【抜き】はヘルスとか、まあそういうとこで、それはあとでまた教えるな。とりあえず【キャバですか、セクですか、それとも抜きですか】、ここから言ってみようか?」
 私は言葉に詰まった。
 まず私は【セク】がセクキャバを指す以上、【キャバですか、セクですか】という問いは表現の合理性に欠けると思いました。しかしそんなことはこの場では単なる揚げ足取りに過ぎない。なぜなら【東心斎橋の笛吹き男】の異名を持つなべは、この言い方を駆使して、事実として無数の人民を【あちら】に誘導しているらしいのですから。その圧倒的な事実性を前に、私の言う合理性のなんと矮小なことか!。
 しかしながら問題はさらに深刻でした。当時、いやそのときの私には、この【キャバですか、セクですか、それとも抜きですか】という表現(言い方を含め)は、これは口に出してはならない表現だと思えたのです。人として、死んでも言ってはならん言葉だ、と。そういう意味では、私はなべに教えを乞うたが、腹の底では教えてもらう気などサラサラなかったに等しいのです。
 しかし、何故そう思ったか?。気恥ずかしいわけでも、ましてや舌が回らんのでもない。強いて言えば自意識過剰の故で、私は下品さにはまだしも堪えられても、定型化(マニュアル化)された下品さには堪えられぬという感じを漠然と持ちましたが、本当のところは私には分りません。単に恥ずかしかっただけかもしれない。が、ともかく私は、こんな言葉を言ったら俺は破滅だという気持ちがしました。
 とはいえ、そんな私の考えを、なべやラルクが理解してくれるわけがありません。彼らには私の意思の根拠も、また意思の頑迷さの根拠も分からない。当たり前のことです。私は志願して風俗案内所で働いているのですから。しかし彼らが私の事情を理解しようがしまいが、とにかく私は【キャバですか、セクですか…】とは言いたくない。いっそ「私は【キャバですか、セクですか…】とは言わないポリシーです」とでも言ってやろうかと思いましたが、それでは全てが終わってしまう。
 そこで私はまず次のような内容の質問をしました。
「自分はキャバもセクもヘルスも行ったことがない。だからその口上を言い終えたとしても二の句が継げない。そこが自分にとっては大変不安なので、まずキャバなりセクなりがどんなところか。そこから教えて頂けないだろうか?」
 要は論点をズラすことで問題を先延ばしにしたわけですが、ここから私のテーマが俄然明確さを帯びてきました。つまり、いかに【キャバですか、セクですか…】を言わずに今日を終えるか、ということです。
 私の問いに応じて、なべは長々と、実に長々と、ときに卑猥なジェスチャーを交えながら、しかし細川俊之さながらの、極めて優しい口調で各風俗ジャンルにおけるサービスの違いについて朗々と解説してくれました。そしてそれが終わると「では…」という感じで【キャバですか、セクですか…】の実技に入ろうとする(これ以後も彼らは事あるごとに【キャバですか、セクですか…】を言わせようとする!)ので、私は慌てて、契約店からのバックマージンの比率とか店長の人となりとか、業務にさして影響しない事柄(それは同時に、本心ではほとんど興味のない事柄なのですが)を次々に質問しました。なにしろ相手はわずかでも沈黙があると、またぞろ【キャバですか、セクですか…】をねじ込もうと企む抜け目ない連中なのです。
 しかし憐れなるかな、とうとう質問のネタも切れ、弱り果てた私は口から出まかせにこう言いました。それはある種、破れかぶれなニュアンスもあったのかもしれません。
「なんかね。客にいきなり【キャバですか、セクですか…】っていうのがどうかな?と思うんですよね。頭に、なにかキッカケの言葉があれば、スラッと言えるんですけどね」
 繰り返すが、私は【キャバですか、セクですか…】を言わない腹であるから、こんなことは時間稼ぎの言い逃れという以上になんの意味もありません。駄々をこねているに過ぎない。
 ラルクはそんな私の態度にイライラを募らせていたようで、「いや!、いきなり言っていいんですって」と頭ごなしに言いました。
 そこへなべが割って入るように言いました。「いや、akaさんの言うことももっともかもしれんな。そうやな、じゃ、何か考えようか」
 基本的になべという人は、その卑猥なパフォーマンスとは裏腹に、年下の者に対しても時折丁寧語を挟み、自分の物言いが決して高圧的にならぬように配慮するような、紳士的とも言える心性を持っていました。私が非生産的な問いを続けられたのも、それに嫌な顔ひとつせず、誠心誠意答えようとする(彼の卑猥さは、誠心誠意であるがゆえなのだと私は後で分かった)なべの特質に拠るところが大きかったのです。ラルクなんて、あなた、そんななべの寛容さにイライラしていたほどですから、まだまだ青いですよ。
「よしゃ、分かった。akaさん。ほな、こういうふうに切り出したらええんちゃう。見ててくださいね」
 なべがそう言ったので、私は注視しました。そこで私は再び目を疑う動きを見せられることになる。
人をリスペクトする人たち「2」
 もう5年くらい経つのでしょうか、「風俗案内所」なるものがミナミに出来はじめた頃、私は一日だけそこで働いたことがあります。なぜ1日だけなのか、それについては後で詳しく説明しますが、たった一日とは言え大変面白くもあり、つらくもありました。
 まず黒のスーツを着せられる。私はスーツなんて持っていなかったので、バックルームで先輩スタッフ(茶髪の男前。5歳くらい年下のラルクアンシエルみたいな子。この子が今回の話の主役である。以下ラルクと呼ぶ)に借りました。着慣れないスーツを着てフロアに戻ると、店長が「お、パリッとしたやんけ」とかなんとかクダナライ冗談を飛ばした後、「ほな、まず挨拶回りに行こか」と言いました。
 私はラルクに付き添われて、ナンバ~東心斎橋に点在するキャバクラを回りました。ラルクが「今度新しく入ったakaです」(無論呼び捨て)と私を店の支配人みたいな奴(イカツイ奴もいれば、不自然におどけた感じの奴もいる)に紹介してくれました。おどけた系の支配人だと「こらあ期待のニューフェイスやな、おい」などと必ずしょーもない事を言い、ラルクも私も「あははは」と愛想笑いをするのですが、一歩店を出ればラルクは急激に顔を曇らせ、決まって小声で「あの人、やさしそうに見えるけどほんまは…」というような話をし、終いに「怒らせるととんでもないことになる。もうこの街で生きていけない」とおびえ切った表情で教えてくれるのでした。
 十数件ほど回り、最後にライバル店でもある別の風俗案内所に行きました。そこでラルクは驚くほど機敏にサッとビルの陰に隠れ、「俺は顔がハケてるから、akaさん、一人で行ってきて。偵察してきて」と言うのです。【顔がハケる】とはどういう意味か分かりませんでしたが、取り合えず一人で店内に入りました。スタッフと思われる男が2人いましたが、私はしばらく壁に貼られたキャバクラ嬢の写真をひとりボンヤリと見て、それから店を出ました。ラルクが「どうでした?。どうでした?」となぜか興奮を抑えきれぬ様子で聞いてきましたが、私としてはスタッフに喋りかけられてもいないのでなんとも言いようがなく、「いえ別に。何も」と言いました。するとラルクは「やっぱ、あかんな」と見下すように呟き、私におよそ次のような解説をしたのです。
「ほかの店の奴はダラけてばかりでダメですね。でもうちの店は接客に力を入れているんです。友達とか家族みたいな感じで、お客さんに親しく話しかけるんです。それがうちの店の特徴で、売りですね」
 そのとき私はラルクの熱っぽい【語り】が何を意味しているのかすぐには理解できませんでしたが、数時間後その意味を身をもって知ることになるのでした。

 店に帰ると、黒いスーツを着たなべおさみ似の小男(おそらく当時で30代後半。なぜか扇子を持っていた。以下なべと呼ぶ)がいました。彼はラルクの顔を見て「おつかれさん」と言い、私に向かって「初めまして。××です」と言いました。私も挨拶をし、ラルクの方をちらと見ると、ラルクが「××さん、うちのエースです」といわく有り気な面持ちで紹介してくれました。なべは「いやいや、そんなことないよ」と言い、ラルクは「いや、そらそうでしょう」と返し、私はこれは一体なんの掛け合いかと思いましたが、黙っていました。
 なべが「まあ、お客さんが来えへんかったらそんなに忙しい仕事じゃないですから。akaさんは初めてやから、しばらく見ててくださいね」と言ってくれたので、私は店内の奥のほうに入って壁にもたれかかっていました。そのときは本当に客が来ず、なべとラルクは二人、世間話で盛り上がったりしていました。
 1時間ほど立ったでしょうか。ラルクが不意に「akaさんにも仕事覚えてもらったほうがええかな」と言い、仕事内容を初めて具体的に教えてくれました。
 店に来た客に近づき、①「どんなところで遊びたいのか」の意思を確認し、②その意思に沿って風俗店を紹介し、③お客さんを連れていく。と、大雑把に言えばそういうことでした。しかし私は風俗案内所になど行ったことがなく、先ほどから客も来ず、先輩諸氏の仕事振りも目にしていないため、実際に何をするのか要領がさっぱり分からない。その旨を伝えると、なべが「そうか…。じゃあ丁度今暇やし、僕が実際にやって見せますから。○○君はお客さん役をやってくださいね」と言ってラルクを手招きしました。ラルクは待ってましたとばかりに駆け寄って、早速腕組みをして客の体(てい)を装い、壁に張り出したキャバクラ情報を目で追い始めました。ラルクの迅速なる身のこなしは、かかるロープレをこいつら何度もやってるなと思わせる堂の入りようでした。
 さて、なべとラルクの寸劇はどのようなものか、私はじっと観察する気でいました。するとまず、なべがラルクに接近していったのですが、私は思わず目を疑った。
 なべはまるで妖精のようにリズミカルに飛び跳ねながらラルクの背後に回り、チョンチョンと肩を叩き、極めて隠微な、姑息に悪事を持ちかけるような言い方で「キャバですかセクですか?、それとも抜きですか?」と言うのです!。
 私は言葉を失いましたが、ラルクは何事もなかったかのように「ん~、セクですね」と言いました。そこからはなべの独壇場で立て板に水、手に持った扇子を開いたり閉じたりしながらシモネタをフンダンに交えたマシンガントークを見せるのです。何を言っていたか、私は覚えていない。いえ、正確にはそのときにも私は理解はしていなかったと思います。私が唯一覚えているのは、「お客さん、エロくて困る!!」と言って、閉じた扇子で自分の額をピシャピシャと叩く所作でした。
 私は、これは無理だと思いました。これは自分にはできない…。
人をリスペクトする人たち
こばやし

「小林秀雄対話集」を買った。

 坂口安吾との対談「伝統と反逆」、正宗白鳥との対談「大作家論」。僕はまだこの二章を読んだきりだが、さすがになかなかスリリングである。
 小林に対する最良の批判である「教祖の文学」を遺した安吾と、小林と「思想と実生活論争」を繰り広げた白鳥。遺恨深き(?)当事者がそれぞれ顔をつき合わせて、さて、どんな話をしているのだろうと半ば野次馬根性で読み始めたのだが、安吾なんて「あれ(「教祖の文学」)くらい小林秀雄を褒めてるものはないんだよ」などと、ノウノウと言っている。また、「おまえさんは文学者なのだからモーツアルトやゴッホについて書くのは純粋じゃない」と因縁をつけ(それはまさしく因縁である)、小林は小林で「何言ってやがる!」などと激しているのだから、まるでプロレスである。

 そうした「芸としての対話」の面白さよりほかにも、見るべきところの多い本書だが、例えば、話の脈絡を逸脱して唐突に現れる次のやり取りにはいかなる意味があるのだろう。

**************************
小林「君なんか、誰も尊敬していないだろう」
坂口「誰も尊敬してない」
小林「そうだろう。そうに決まってるんだよ。それでいいんだ。誰も尊敬しない人が出て来るのはよい事だ」
坂口「バカですからね」
**************************

また、やや自嘲的なニュアンスを伴った正宗白鳥の呟きの、このうら寂しい感じは一体なんだろう。

**************************
正宗「(中略)僕は人を尊敬する気持ちに乏しいようだ。それでも若い時ある人々を崇拝したり、それからすぐれた人というものは、いろんなこと、自分の知らない深いことを知っているんだろう、つまり地獄も極楽も知っているんだろうと、自分に比べて思っとったんだが、自分が歳をとってみると、誰もわからないんだな、と思うようになった」
**************************

 ある時期、小林秀雄の論説に真っ向から反対した両者が奇しくも【人を尊敬する気持ちの乏しさ(あるいは欠落)】について語っている。一方小林は「一体人情というものを抜きにした冷静公正な批評に堪えられる様な大人物は百年に幾人も現れないものだよ。そういう大人物に対して僕は戦う」なんて言っている。よく言うよ、この狸ジジイが、とはもちろん言えない。このことが何を意味するかについて、言おうと思えばいくらでも言えるだろうが、少なくとも僕は小林の態度の世俗的な率直さを嫌いではないし、安吾や白鳥が特別に偏屈な人間だとも思わない。むしろこんな奴はいくらでもいるのだ。
 ただ問題は、どちらがより現代的な態度なのか、分からないということなのである。
大仁田劇場リターンズ
おおにた

 大仁田厚が“小泉チルドレン”ならぬ、精神が“リアルチルドレン”な杉村大蔵にちょっかいを出し続けているという。http://www.yomiuri.co.jp/hochi/news/oct/o20051018_40.htm 要はこういうことです。大仁田は「21世紀の大仁田劇場」をやりたいわけです。このままいけば杉村は、「政界の真鍋」になることは間違いないと思われる。
***************
 大仁田劇場とは!?。

 90年代後半、テレビ朝日系「ワールドプロレスリング」の番組内におけるワン・コーナー。通常なら単に試合前・後のインタビューにすぎないのだが、新日本プロレスに殴りこみをかけた大仁田厚とテレビ朝日アナウンサー真鍋由とのやりとりの堆積は、結果として二人の邂逅から真の信頼関係が築かれるまでを描いた熱血物語に。このコーナーは次第にエスカレートし、ついには大阪南港でのロケを敢行して、電流爆破の威力を試すためと称し、スイカを破裂させるといった「お笑いウルトラクイズ」さながらの「演出」も為された。そのあまりの馬鹿馬鹿しさが話題となり、プロレスファンの枠を超え、一部に熱狂的な支持者を生んだという。
***************
 では私が漠然と覚えている「大仁田劇場」のさわりをここで再現してみよう。

「おい真鍋、真鍋よ~、電流爆破、電流爆破デスマッチを、おい~、おまえは、おまえは電流爆破デスマッチを見たいかっ!」
「はい、私は…ぷわっっっ!!」
(突然、大仁田が口に含んでいた水を真鍋の顔に吹きかける)
「なんじゃあ、言うてみい!」
「私は…、大仁田厚選手の…電流爆破デスマッチが見たいです」
「本心か」
「はいっ!」
「真鍋、おい、真鍋よ~。男が、いいか男が、男が心を、男が心を語るときは、男が心を語るときは真鍋~、腹から声だすんじゃ。おい~、おい真鍋~、電流爆破デスマッチ、大仁田厚の電流爆破デスマッチを、大仁田厚の電流爆破デスマッチを真鍋~、本心で見たいかっ!!」
「はいっっ!!!。私は本心で見たいです!!」
「受け取った!!。真鍋~、おまえの、おまえの魂、おまえの魂、真鍋、おまえの魂この大仁田厚がしかと、しかとこの大仁田厚が受け取った!!。真鍋、おい、いいか、狙うは長州の首一つじゃ、真鍋おい、おい~、狙うは長州の首一つ、狙うは長州の首一つ!!」
***************
 とにかくウザイ男ですよ、大仁田は。杉村君もこんな男に付きまとわれては気の毒というしかないが、真鍋役にピッタリのキャラ&風貌だから仕方がない。ピンときたんやな、大仁田は。ま、しばらく我慢するしかあるまいね。

 ところで大仁田と真鍋は、たしかその後絶縁し、現在「スーパーモーニング」や「ANNニュース」に出演している真鍋はかつて自分が「大仁田劇場」に噛んでいたことを経歴から消去したげなフシもある。(プロフィール&経歴には、大仁田の「お」の字も出ていないし、自己紹介Q&Aで“入社してから一番印象に残る仕事は?”の問いに「入社2年目の高校野球の実況」と答えるとは何事か!?。「大仁田劇場」より印象に残る仕事があるわけはないのだ)。
 かつて真樹日佐夫先生は週刊文春「格闘裏面史」(この連載、なんで終わったんやろ。復活切望)において、【過去の恩をさっぱりと忘れることにかけては、大仁田は猪木と双璧】と喝破されたが、そういう意味では大仁田と真鍋、似た者同士と言えるかもしれない
光と影
 阪神優勝で沸き返る関西地方をよそに、遠く東北の地において、問題が発生している。
「青葉城恋歌」でお馴染みのさとう宗幸(公式サイトによれば、ファンは【宗さん】と呼ぶらしい)が、楽天ゴールデンイーグルスの監督解任劇に激怒しているという。激怒。しているという。あの温厚な宗さんが激怒するくらいだから、これはよっぽど悪いことなのだ。義理人情にもとる、犯罪的な手口なのだ。さもなくば、宗さんが激怒するわけはない。
 仙台出身の彼は楽天球団を心から愛していたという。しかし今回の解任劇により、『チームへの愛情がフロントへの憎悪へと変わった』という。宗さんが憎悪などという感情を持つはずはないから、やはりこれは相当な悪行である。100パーセント宗さんが正しく、球団フロントはすっとこどっこいである。
 あの、この世のものとは思えぬほど優しい声の持ち主の宗さんが、その自慢の声を震わせながら、「もう球場には足を運ばないし、年間シートも買わない。イメージソングも歌わない。Mさんには裏切られた気分です」と語っているという。Mさんとは無論三木谷のことで、スポニチでは、『三木谷オーナーをイニシャルで呼ぶほど怒りは頂点に達していた』と結んでいる。
【怒りが頂点に達するとイニシャルで呼ぶ】。あの難波BEARSの伝説イベント『阪神タイガース・シンポジュウム(ママ)』において山本精一が「今年のGは…」と言い、また、中曽根康弘がダグラス・マッカーサーを「マ」と唄う(「箸休め」参照)心理であろうか。
 それはさておき、心の優しい、穏健な男が、ハタから見てさほど深刻でない事由(楽天ファンの皆様には申し訳ありませんが、私など宗さんが怒っているというので初めて事の悪辣さを知る始末で…)によって怒り狂う。それは、不謹慎の謗りを恐れず言えば、とてもロマンチックなことである。もしかすると、その事由がくだらないものであればあるほど…。 
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。