out-of-humor2
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熊殺し
 ク、クマを一撃で…


 この格闘ロマンの体現者(59歳男性会社員)の実名をなにゆえ公開しないのだろう。
 日本の豪傑列伝に名を連ねるに相応しい偉業ではないのか。
 弟子入り志願者が殺到するだろうに。
 
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石突き
 淀屋橋へ向かう京阪急行電車の先頭車両に僕はいた。
 座席のほとんどを部活動帰りと思しき中高校生の集団が占めていて、彼らが足元にバッグを置いているために、車内は少々狭く感じられた。
 そのなかで僕は要領良く席を確保していた。
 僕は運が良かった。
 仕事を終えて、僕は疲れきっていたのだった。

 寝屋川の駅で人が数多く乗り込んできた。車内はみるみるいっぱいになった。
 僕の前に若い男が二人立った。ふと見上げると、彼らは吊り革に捉まり、だらしなく体を曲げていた。チンピラ風の茶髪の二人組だった。
 
 僕は胸の前で腕を組み、ぼんやりと二人組の履いているスニーカーを見ていた。僕は眠ろうとしていた。しかし寝屋川を出て二、三分経ったころ、腹を棒で押されたような妙な感触があった。

 さらに目線を落として自分の腹に目をやると、二人組のうちの僕から見て左側の奴が持っている傘の先端、俗に「石突き」と呼ばれる部分が(どういう傘の携え方をしているのか分からないが)、僕の腹に触れたり離れたりしているのだった。
 
 チンピラ二人は、それに気づいていないのか、かしましくも談笑していた。

 幸い石突きは木製であり、丸みを帯びていたので痛くはなかった。それにその時間に雨は降っていなかったので、服が濡れることもなかった。しかし、たとえそうでも、傘の先端が人に向いているのは危険であるし、第一無礼である。
 
 僕は断固立ち上がり、チンピラ二人に抗議するのが常道だと考えた。

 しかし、いくら心の中でそれを思っても、僕は一向に頭を上げられないのだった。
 偶然。あくまで偶然、石突きが腹に当たっている。僕にはそうとしか思えなかった。彼らに悪気はないはずだ。なぜなら意図的にこんな振る舞いをされる理由が見つからない。それはありえないことだ。
 だが、よくよく考えれば、それはありえなくはないし、事実、過去にこれと似たようなことをされた気もする。

 もし仮に、僕が石突きを決然と振りのけ、下から吹き上げるように、怒りを湛えた目で彼らを見上げたとき。彼らはどんな顔をしているだろう。
 申し訳なさそうな顔だろうか。呆気に取られた顔だろうか。
 しかし、まさかありえないとは思うが、悪魔のように挑発的な笑みを浮かべながら、しかし目だけは僕と同じく噛み付くような鋭さで見下ろしていたら!。

 僕は恐怖に震え上がった。その恐怖は、単に二人のチンピラへの恐怖ではなかった。こともあろうに電車の車内で、愉快犯よろしく人の腹を傘で突くという、彼らの行為の理不尽さに対する恐怖だった。ありえないと思ったことが、事実目の前で行われていることへの畏れだった。まさかとは思うが、と僕は心のなかで繰り返した。

 その間、石突きは電車の揺れと連動するように、僕の弛緩しきった腹をぐいぐいと押しては、弾力で押し返されるように、離れた。

 僕はふと考えた。
 僕が腕組みをしているせいで、彼らは状況が分からないのではないか。彼らの目線から見れば、僕の腕が邪魔になって、腹と石突きとの接点が見えないのでないか。僕自身が、僕自身の腕が犯罪的挑発的行為にお誂え向きの死角を作り出していたのではないか。

 僕は反省し、落ち着き払った風を装い、寝返りを打つような自然さでおもむろに腕を解いて、ダラリと下げた。

「これで奴らも気づくだろう」と僕は考えた。あいかわらず時々石突きが腹にぶすりとめり込んでいたが、これで奴らが己の愚挙に気づくのだという期待が僕を興奮させた。奴ら、気づいたらどんな態度に出るだろうか。侘びを入れてくるだろうかと僕は予測し、そのときこちらは如何に振舞えばよいかを考え始めた。

 しかし腕を下げて待てども待てども、二人は気づいてくれないのだった。いかにも見通しの良いはずの、丘陵状に膨れ上がった僕の腹を石突きが突き続けているというのに!。

 ところが一方で、この腕を下げた姿勢は思いもよらない副作用があった。
 僕の隣に座っていた真面目そうな男子学生が、石突きと腹の接触に気づいたらしいのだ。
 確信はなかった。だが一方的に僕は彼の視線を強く感じた。彼がせわしなく顔の向きを変え続けているのは、僕の顔や腹、チンピラの顔などを順繰りに観察しているに他ならないと思えた。
 
 僕は帽子のツバを深く下げた。恥ずかしさで頭に血が上った。しかし今更、再び腕組みをするわけにはいかなかった。それをすれば、僕はもっと惨めになると思った。

 それから10数分間というもの、僕は露わになった腹を突かれ続け、学生はずっとそれを見守っていた。
 
 初め、奴らはなんで「手応え」で分からないのだろうといぶかしく思っていたが、そんな疑問はすぐに吹き飛んでいた。
 
 分かるはずがないさ。だって弛緩しているのだから。腹の表面が「突き」に呼応して伸縮し、手応えを奪っているのだから。腹の弛緩しているのが悪いのだ。
 弛緩している腹がその滑稽さを棚上げして、人に抗議したり、食ってかかったりできるだろうか。僕はそう思った。辱め、嘲笑する彼らの権利を、この弛緩腹がおこがましくも簒奪することができるだろうか。弛緩した腹が悪いのだ。弛緩した俺が悪いのだ。
 
 僕はうなだれ、ゆらゆらと電車の振動に身を任せながら、為すがままに突かれ続けた。

 あと少しで京橋というところで、上方から声が聞こえてきた。
「おえ」
 チンピラの右側の奴だった。少し笑っていた。
「おまえ、傘当たってんで」
「あ、ほんまや」
 左側の奴が言った。ようやく、石突きの接触に気づいたようだった。彼もまた軽く笑い返し、それから「当たったわ」と呟くように言った。
 その後数十秒、彼らは無言だった。無論僕も、隣の学生も無言だった。そうして京橋に着いた。彼らは何も言わず、降りていった。侘びの言葉は一切無かった。

 彼にとっては、そのとき一瞬だけ傘が触れたぐらいに思っているのだろうと思った。なぜなら彼は「当たったわ」と言ったから。それなら、彼にとっては、取り立てて詫びるほどのことではないのかもしれない。

 だが事実は異なる。僕は彼に20分以上もぐりんぐりんと突かれていたのだから。しかし、彼らを呼び止めて詰問するだけの度胸も気力も、僕にはあるはずがなかった。僕は憔悴しきっていた。こうべを垂れ、抜け殻のように虚ろな体を、ただ座席へ据えていた。

「あの…」
 隣の学生が小声で僕に語りかけてきた。同情するような調子だった。
「大丈夫ですか?」
 僕はふうと溜め息をつき、1拍おいてから、愚問を咎めるような、あるいは呆れたようなつっけんどんな言い方で言った。
「大丈夫に決まってるやろ」
 口をきくのもしんどいほど、僕は本当にくたびれていた。
「腹をつっつかれたぐらいで」
虎の穴
 初代タイガーマスクとしてお馴染み、佐山サトル元帥が新道場を開くとか。

 佐山サトル-official blog

「セラピーや催眠治療」を取り入れた新たな指導法を実践するらしいので、一口に言って恐ろしい道場になりそうだ。

「いまだに当時のシューティングやキック系の生徒からは、先生と呼ばれています」
 
 人に「精神や礼儀の指導」を行う者がこういうことを言うべきではないのは勿論だが、しかし実に良い一文ではありませんか。

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 ↑何度見ても、心洗われるようです。
誤差の許容
 またもや吉田戦車「エハイク」より。

「坊主刈り」

 秀句である。
 しかし例えば「月よ見よ」の如き、世界的に見て優れていると言わざるを得ない定型詩と比べれば、何ほどのことはないのかもしれない。
 ただ奇しくも、私はこのエハイクがUPされた七月十八日まさに本日、「暑さに耐えかねて、バリカンで」一分刈りにしていたのだった。
 厳密に言えば、そもそも私は三分刈りを望んでいた。だが嫁がスキカル君(バリカンもどき)の目盛りをウッカリ間違えて、心ならずも一分刈りにされてしまったのだった。
 そうだとしても、この偶然は私を高揚させた。

 俺もいつか主将に肩を叩かれるような見どころのある男になれるだろうか。
 それを思えば、たかが二分の誤差にどうして頓着できるだろうか。

カッパアレルギー
「FNS26時間テレビ」はここ数年で最低の出来で、私は終始イライラしっぱなしでしたが、唯一救いだったのが明石家さんまさんの「ネプリーグ」乱入でした。
 明石家さんまさんが河童の扮装をしてセットのプールを泳ぐなんて、「ひょうきん族」以来やないかと思って私は胸が熱くなった。
環境づくり
 8月30日、Zepp東京で須藤元気さんの素敵なイベントがあるようですね。
 東京にお住まいの方はぜひ行ってみてはいかがでしょうか。
 大阪でやってくれたら私も馳せ参じますのに。
 
 以下、公式サイトより転載。

**************

須藤元気プロデュースイベント「ということは愛ですよ。」が開催されます!
【日時】2006年8月30日(水) 18:00開場 19:00開演
【会場】Zepp東京 
【チケット料金】 SS:8000円(2F指定席・プレゼント付き)
          S:6800円(1F指定席)
          A:3800円(1F立ち見、自由席)
【チケット購入】 先行販売期間 7月10日PM12:00~7月19日PM14:00
【お問合せ】 info@firstconnection.co.jp(公演内容等の問い合わせ)

コンセプト:「地球への愛」
世界の人口の20%が地球上の資源の80%を使っているこの現実の中で、その20%にあたる私たちが母なる大地に対して何ができるかをみなさんに考えていただき、より素晴らしい環境を作り出すためのアクションを起こすきっかけを作ることがこのイベントの目的です。
元気の常識外の世界観から繰り出される様々なパフォーマンスをお届けし、コンセプトの根源には「地球への愛」があり、有機的秩序をとり戻そうというメッセージが込められています。須藤元気の持つ高いエンターテイメント性と高いアート性から生まれるエコロジーなメッセージをみなさんに伝えるイベントで、ダンスを中心に、和太鼓、琴、書道等日本文化を新しく表現したものになっております。
※このイベントの収益の一部は環境づくりに還元します。

提言③
 岡山市表町、天満屋バスターミナルにいた交通整理のオッサンは、岡山市民なら知らぬ者はないと思われるほど有名で、親しまれた男であった。
「バスターミナルの名物男」として「ズームイン朝」等でも紹介された(と思う)この男がなぜそれほど有名だったかと言えば、溢れんばかりの笑顔とバレリーナを思わせるしなやかな身のこなしで衆目を集める彼の仕事姿、それが取りも直さず誰の目にも異様と映るほどテンションの高いものだったからだ。
 バスターミナルを縦横無尽に動き回り、時にクルクル回ったかと思えば、滑らかな動きから一転、ぴんと肩から指を伸ばして車両を誘導し、またにんまりと相好を崩しておどけて見せるというようなメリハリの効いた彼のパフォーマンスは、実際岡山市民に親しまれていた。
 僕の母親などは明らかに彼に一目置いていて、幼い頃天満屋に行けば必ず「ほら、またあのおもろいおっちゃんがおるよ」などと言っては、僕の視線をオッサン方面へ導くのだった。
 しかし僕は幼心に彼を気持ち悪いと思っていた。「この人はなぜこんなことをしているのだろう」と感じられた。あるいは、なにか見てはいけないものを見せられているような不快感があった。
 職責というものが不可避的に強いる「たたずまい」があるとすれば、彼はそこから自由に飛んだのかもしれないが、僕は彼の飛び様と、そして飛んだこと自体を不可解に感じていたのだった。

「審判について」

 天才・吉田戦車はサッカーの審判がレッドカードを出すという行為を卑近な自己顕示欲だと喝破しているようだが、しかし中にはこういうのもいるのだ。
 なにやらニヤニヤと近づき、「自分、そらあかんで~」という感じで首をすくめながら「はい、イエローカード」と戯作者的な、よく言えば親しみの籠もった面持ちでカードを示す。
 僕はこの手の軽薄な輩を見るにつけ、あの理不尽な柔和さを持ち、しかし理不尽さゆえの面白さを持たない彼のことを思い出した。
 今大会中には、試合中ロナウドにユニフォームをせがむ不心得者の審判もいたようだが、ピッチ上の交通整理を課せられた審判は、それこそ己の職責が強いるロール(役割)を全うしなくてはならない。
 そもそも彼らは疎んじられるに決まっているのだ。ことに、「提言①&②」で述べたように、農村的、当たり屋的メンタリティを有する荒くれ達を御そうというのだから。
 彼らはそのこととしっかり向き合うべきで、ゆえに妙に馴れ馴れしげな、あるいは媚びたような、選手とフレンドリーに付き合おうという魂胆さえ透けて見える、あのヘラヘラした態度を僕はいかがなものかと思うわけだ。

 吉田戦車の言うことは至極もっともなことで、そのセコ過ぎる自己顕示欲は改めて考えるべき問題だけれども、しかしでは如何様にカードを出せばよいのかと考えれば、僕はやはり「ハイル・ヒトラー」よろしく高々と、折り目正しく掲げる以外にないのではと思う。
 つまり僕の考えでは、彼らは永遠に「見よ妻よ」と揶揄され続けるほかない存在で、審判の方々にはぜひともそれを覚悟して、しっかりやってもらいたいと僕は願っているのである。
 だから主審。君の掲げたカードから足の先まで、一直線にピッと伸びていたとしても、たとえそれが体操競技のフィニッシュを思わせる伸びやかさだったとしても、もう、ええやないですか。
提言②
************************
 大化の改新以来、農村精神とは脱税を案出する不撓不屈の精神で、浮浪人となって脱税し、戸籍をごまかして脱税し、そして彼ら農民たちの小さな個々の悪戦苦闘の脱税行為が実は日本経済の結び目であり、それによって荘園が起こり、荘園が栄え、荘園が衰え、貴族が滅びて武士が興った。
(中略)
 日本の農村は今日においてもなお奈良朝の農村である。今日諸方の農村における相似た民事裁判の例、境界のウネを五寸三寸ずつ動かして隣人を裏切り、証文なしで田を借りて返さず親友を裏切る、彼らは親友隣人を執拗に裏切りつづけているではないか。
(坂口安吾「続堕落論」より)
************************


「提言①」を書くにあたって、正確に記すならば「気づかれぬように徒党を組んで少しずつ前に出る」シーンを見たときからであったが、僕の頭に浮かんでいたのは上の文章であった。
 ここで勘違いしてほしくないのは、僕は件の行為を否定しているのではない。むしろ可笑しく感じているのである。
 品が無いには違いない。しかし品がないからといって悪ではない。もとより善か悪かなんて、僕に決定する資格は無い。
 ただ僕は「あ、サッカーというのはこういう人たちがやっているのか」とひとり合点しているだけである。「こういう人」とは上の安吾の文意に照らしていただければ結構である。

 ちなみにサッカーの直接的な起源は、中世ヨーロッパの農村地帯で行われていた「村同士で互いの村まで一つのボールを運んでいくという遊び(儀式)」だというから、さもありなんである。サッカーは狩猟民族の遊戯だとどこかで読んだことがあったが怪しいものだ。

「シミュレーションについて」

 さて、審判を欺くために反則を受けたフリ、負傷したフリをする行為をサッカーではシミュレーションという。
「当たっていないのに当たったと言う」「痛くないのに痛いと言う」「(顔をしかめにしかめて)痛たたたたたたたっ」。こういうことは、我が国では早川紀代秀(オウム真理教元幹部)やハマコーが好んでやっていたが、本来テレビでそうそうお目にかかれるような行為ではないのだ。
 しかしこの1ヶ月というもの、僕は何度それを見ただろう。いや、審判からシミュレーション判定を受けていない「見逃されたもの」もあるだろうから、いわば僕はずっと当たり屋の技術を見続けていたのかもしれない
 さしあたって僕はその事実にぞっとしている。
(ただ、僕は「あ、ピッチ上で誰か倒れてますね…」などと実況されると、不謹慎ながら笑みを禁じえない)


 僕がこういうことを言うと、サッカー観戦に慣れた人は「サッカーってそういうもんでしょ」と決まって不問に付すのである。「シミュレーションもサッカー技術の一つだと考えるのが通だ」くらいに思っているのだろうが、あいにく僕はサッカーに思い入れのカケラもないし、無知である。その僕にとっては、どう考えてもこれは由々しき下品さである。
 FIFAもさすがにまずいと思ったのか、今大会ではシミュレーションに対する裁定が厳しくなったのだそうだ。従ってその反則数は減ったのだろう。しかしながら、それは逆に言えば、以前はそこら中で「嘘コケ」「嘘負傷」の名演技が見られたということだ。それを見逃している僕は幸か不幸か?。

 さらに分からないのは、ピッチ上に選手が倒れた場合、相手側のチームはキープしているボールを勿体無くもピッチ外へ蹴り出し、(審判の)時計を止めるのがマナーとされているらしく、蹴り出さないと観客から酷いブーイングを浴びる。
 で、時計が止まっている間、両軍の選手が何をしているかと言えば、おおむね水を飲んでいるのである。暑かったから、今回。
 しかし、このマナーとシミュレーションを組み合わせればとんでもないことになるのは誰の目にも明らかで、なんとなれば「嘘負傷の男」は己の休憩時間を自在に作り出すことができ、また敵に傾いた流れを強引に止めることができる。
「そんな卑怯なことをする選手はどこにもいない」と誰が言えるだろうか。そもそもシミュレーションなどというファウルをわざわざ案出したり、厳密に機能させざるを得ない事態がその反証ではないか。
提言①
 この一ヶ月間サッカーを見続け、すっかりサッカーを「分かったつもり」の私が老婆心ながら考える「もっとこうしたらいいのに」。サッカーというスポーツに対する提言のいくつか。
 今さら何を言っているのか?という指摘は無しで!

[フリーキックの壁について]

 ゴールエリアを少し外れた、だがシュートを狙える位置でのファウル。フリーキックである。蹴るのは名うてのフリーキック巧者。スタジアムの誰もが固唾を飲んで彼を見守る。ゲーム最大の見せ場の一つである。
 しかし彼の目前には忌々しい障害物がある。
 それが「壁」である。

 言うまでもなく、「壁」とは選手たち(攻守を問わず)によって構成された「人間の列」である。
 いい大人が窮屈そうに肩をすぼめて、何やらモゾモゾしながら並んでいるというのは常識的に考えて恥ずかしいことだし、そもそも「壁」などというものに己をすすんで擬物化しようという彼らの献身的な姿勢には敬服するしかない。(ちなみに私は「あ、ジダンも『壁』になってますね」などと実況されると、反射的に笑みが込み上げてくる)

 だが、次のようなシーンはいかがなものか。

 審判が両手で壁の位置を指し示し、初めはそこで選手たちも従順な態度でジッとしているのだが、いよいよ蹴るぞという段になると「壁」になったはずの選手たちがジリジリと前へ出始める。
 審判が気づいてピピピと笛を吹き、再び壁のラインを示して「ここまで下がれや」と言う。
 すごすごと、しかし何か物言いたげな表情で選手たちは下がり、またぞろ「壁」になる。
 ところが仕切りなおして蹴るぞという段になれば、やっぱり「壁」はジワジワと前へ出て行くのである。
 審判が注意する。蹴る側の選手も「おい、壁がちょっとずつ出てきてないか?」と疑義を申し立てる。
 選手たちはまた下がって、「壁」になる。

 その一部始終をイライラしながら観ていた私は、たまりかねて「ジッとしとけや!」と叫んでしまう。

 少しでもシュートコースを狭めたいという気持ちの表れかもしれないが、審判が「ここまで下がれや」と言うているのだから、素直に下がってジッとしておればよいのだ。
 そしてさらに言えば、なるべくバレないようにジリジリと前へ出る行為(絶対バレるに決まっているのだが)を、「これって恥ずかしい行為じゃないか。カッコ悪いんじゃないか」と自省する真っ当な美意識を持った者が、もう少しいてよい。

ドイツ敗戦に寄せて
 実にアッサリと予想は外れてしまった。
 断言調の、気迫の籠もった予想(文字のサイズは小さいが)をアップした僅か数時間後、私が打ち立てた「夢」ははかなくも灰燼と帰した。
 遺憾の極みである。あ、以前にもこんなことを書いた気がするけれども。
 それはさておき。
「夢」と私は書いたが、あれは単に予想ではないのだ。どんなに公正を装っても、あの予想に私のいじらしくも独りよがりな「願望」が少しも加味されていないとは言い難い。
 私はドイツに賭けていたのだった。
 何を?、などと野暮なことを問うなかれ。眼力のありったけを賭けていたに決まっているではないか。
 ところが夢は破れた。延長戦後半14分、あと1分で得意のPK戦に突入というところでドイツは力尽きた。それは「夢破るる」という言い回しに相応しい、絶望的な負け方であった。

 その瞬間はあまりに唐突に訪れた。
 ゴール前、イタリアのヤサ男がボールをキープして、あさっての方を向きながらヒョイと気障なパスを出した。なぜだかドイツのディフェンス陣は全員足が止まっていた。
 パスを受け、すぐさま左足から放たれたボールは、憎たらしくも見事なカーブを描きながら吸い込まれるようにサイドネットに収まった。
 その刹那私はウッっとうめきともつかぬ鋭い声を上げたきり、半開きの口をパクパクと動かしながら、しかし無言で、狂喜乱舞するイタリア選手の様子を眺めた。
 悪夢のようであった。実際私は数日前この瞬間を夢で見たような気がした。

 そのとき横で見ていた嫁が、ゴールの衝撃に弾かれたように「なははははは」と笑った。

 後にして思えば、嫁の笑いの根拠はおそらくこういうことだ。
 西成に居を構えるおっさんが、何を賭けたか知らんが縁もゆかりもないゲルマン民族の球蹴りに興奮し、致命的な一撃を喰らって声を失った。なんて理解不能な、滑稽なことだろう。
 私は嫁の笑いは正当だと思う。
 だがそのときの私にそんなことを考える余裕はない。私は嫁の笑い声を遠くで聞いていた。遠くの方から、かすかに嫁の笑い声は聞こえた。

 しかしながら試合終了までまだ1分少々はあるはずだった。私は無言で画面を見続けた。
 すると、一人のドイツ選手がサイドラインをドリブルで攻め上がっていく。
 確かウドンコルというケッタイな名前のその選手は、諦めを知らぬ必死の気迫で遮二無二疾走していた。
 一心不乱でなりふり構わぬその様子はいかにも急いでいるという感じだった。彼は時間に追われていた。時間から逃走していた。大変な速力であった。
 この一人の選手の執念の姿は私の胸に染みた。彼のもがきは私のもがきでもあったから。
 私は彼を祈る思いで見守った。
 幸い彼は途中から出場しているためスタミナが残っている。また滅法足が速かった。
 自然に私は叫んでいた。

「急げ!、急げ!。走れ、ウドンコル。いけっ!、負けるな」

 そのとき不意に、嫁が再びけたたましく笑い出した。

「うわははははは」

 私は上の空でそれを聞いた。出し抜けに焦り始めたウドンコル選手の闇雲な姿、破れかぶれの走法を、嫁は笑っていた。
 私はウドンコル選手を見つめ続けた。
 だが悲しいかな、焦り過ぎて球捌きをしくじったか、あるいは元々光の見えぬ特攻だったのか、ウドンコル選手はすぐにボールを奪われてしまった。
 
 その後、防御を捨てた玉砕戦法に打って出たドイツは、あべこべに、イタリアの洒落男に木で鼻をくくるようなループシュートを決められ、沈んだ。
 試合終了後、ウドンコル選手は泣き崩れていた。
 その後のことは覚えていない。私は直ちに布団に潜り込んだ。
 
 数時間後、目覚めた私はドイツの敗戦をニュースで確認した。もしかしたら夢ではないかと思ったが、紛うことなき現実であった。
 私は物思いに耽った。様々なことを考えた。ドイツは何故負けたのか。私の予想、その根拠のどこに誤りがあったのか。PK戦になっていたら勝てただろうか。
 私はふと嫁の笑い声を思い出した。一回目のゴールシーンで嫁は笑った。それからウドンコル選手の激走のところで…。
 段々と嫁に対して腹が立ってきた。どう考えても、ウドンコル選手の行為は笑われる筋合いのものではない。あの必死さ、最後まで諦めぬ戦いぶりを笑うのは人の道に反するのではないか。なんと卑劣な奴だと思った。
 私は嫁を呼んだ。
「おまえ、最後で笑っていたな。ウドンコル選手が走っているところで笑っていたな。それはあかんぞ、おまえ。ああいう姿を笑うのは絶対あかんことやぞ。何を思うて笑ったか。どういうつもりや?」
 私は憤慨していた。しかし事もなげに嫁は言った。

「笑ってないよ」

「嘘をつけ!。笑った。確かに俺は聞いた。おまえがなははははと笑うのを俺は聞いたぞ」
「笑ってないで」嫁は真顔で言った。
 それから私は数十分に渡って、いや、笑った、ふざけるな、と糾弾したのだが、嫁は「笑ってない。ほんまに笑ってないで」と言う。

 では、空耳だろうか。
 しかし私は確かに笑い声を聞いた気がする。私の気分はゆっくりと沈潜していった。ではあのとき私が聞いた高らかな哄笑は誰の声だろう。ウドンコル選手は、ウドンコル選手と私は、誰に笑われたのだろうか。
 その日、私はいつまでもひどく不機嫌であった。
 だがドイツ国民の落胆ぶりを思えば、私の落ち込みなどは可愛いものだろう。って、この文句も以前書いた気がするな。
ワールドカップを予想する
 ここ数日ううんううんと頭を捻っていたのですが、先程突如として思考が鋭くキレ始め、ようやく結論が出た。

決勝はドイツVSフランスです。
そしてドイツが優勝とあいなります。きっとそうなるはずです。そうとしか考えられない。
明確な根拠もある。今は言わないけれども。
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