out-of-humor2
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
雑記12/26
●先日偶然「NEWS ZERO」を観た。そもそもこの番組については、出演者の人選からセットのデザインにいたるまで、番組としての「トーン」を僕は未だに理解できないでいるのだが、この日の特集で、なにやら楽天の三木谷が「これからのネットビジネスには口コミの力が大事」とかなんとか言っていた。ふーんと思っていると、その一例として楽天のユーザー懇親会というか、各界に影響のある著名人を招いて、楽天市場で売られている素材を用いた料理に舌鼓を打ちながら談笑している様子が映された。これがなぜ「口コミ」の実例かというと、この日食った料理の美味さを、その著名人とやらがあちこちで触れ回ったり、ブログに書いたりすることを期待しているのだそうだ。それによって楽天市場の名を売るのだとか。だから懇親会とはいえ、実状は「談笑」より「舌鼓」のほうに重心が置かれている。
 一口に言って「なんやそれ?」という話だが、この著名人の人選がふるっていて、中谷彰宏、おちまさと、岡田美里、ギャル社長藤田ナニガシという、よくもまあ集めたなと嘆息すべき錚々たるメンツであった。
 なぜこのメンツを呼ぶに至ったかを知りたい。懇親会などはよいから、その前段の企画会議の模様を見せてほしいくらいである。そのほうが楽天の企業イメージも上がるのではないか。従前と違った意味で、ではあるが。
 で、口コミを期待された著名人たちだが、見事期待に応えているのである。その健気なほどの律儀さには呆れてしまった。
http://ameblo.jp/tokyoochimasatoland/entry-10017163269.html
 千切れんばかりに尻尾を振っておられるようで。
●M-1の結果については予想通りであるので、今さら書くことはありませんが、「人生観を変えるためにインドに行ったり」することは馬鹿のすることですが、その馬鹿げたところからですら「二日で帰って」くるような奴は、もう、あと何を為し得るというのでしょううか。これ、もちろん誉めているのです。
●こんなことは書くまでもないと思いますが、馬一頭の引退に涙する神経はすごいですね。そもそもなんでここで引退するのかといえば、つまるところ金の問題以外に理由はないわけで、泣いている人が一生かかっても得られない莫大な金が馬主の懐に入り、しかし記念で買った100円の単勝馬券を握りしめた下々の人達は、三連単その他の欲深い馬券はすべて外したとしても、その大金持ちの飼い馬を、潤んだ目で見つめるのをやめないのである。
 負け犬が勝ち馬を慕う。なにも競馬に限った話ではない。そしてこの光景を今年何度も見てきた気がする。

スポンサーサイト
興奮状態
 品川近辺で2度も逮捕されたことは、ネット上などでさまざまな推測を呼んでいる。「制服大好きの植草さんは品川女子学院の制服が一番のお気に入り」。
 (中略)
 その品川女子学院の生徒が20日、植草被告の公判前の午前9時頃から、東京地裁前に集まりだした。人数は約50人。
 (中略)
 報道関係者からは「“品川の敵”とやゆされる植草被告を見に来た」「植草被告を興奮状態に陥れ、本性を暴くための検察の作戦だ」などという声も上がり、誰もが不審顔だった。
 (中略)
 そこで引率の教師を直撃すると「今日は社会見学なんですよ。地裁での裁判傍聴のほかに、日銀や造幣局などのコースもあったんです」
 (中略)
 植草被告公判の日に社会見学が重なったのは単なる偶然だった。とはいえ同校では「植草さんの事件があって以来、痴漢に対する警戒を強めています」
 (中略)
 一方、参加した女子生徒は「えっ、きょう植草さんがいるんですか。キモイけど見た~い」などと大はしゃぎ。
 (中略)
 しかし、見学する法廷はあらかじめ裁判所に決められていたため、植草公判は見られない。それを知らされると、「え~っ」とがっかりしていた。
 (中略)
 その植草被告、髪の毛はかなり薄くなりガリガリ状態。目だけをギラギラさせて、傍聴席を何度も見渡した。
 (12/22『大スポ』より)

好き放題言われていますね。


独り言としてのタメ口
 試合は観ていないのだが、亀田の会見を観てしまった。
 前回のタイトルマッチの前後から、やくみつるや勝谷がよく「口の利き方を知らない」とか「年長者にタメ口は失礼だ」と言っていたが、どうも僕にはよく分からないところがあった。もちろん、あれが非礼に映るのは事実だろうから非難するのは勝手だが、そのこととは別に彼の話し振りには気になる点がある。今まで亀田の会見を何度も観てきたが、その都度、こいつはずっと独り言を言っているのではないかという疑念があったのである。発言すべてがそうだとは言わないが、例えば「亀田とKOはセットやからな。うん」などと、自己に対する相槌や首肯が多いのも彼の特徴で、なにか自分に言い聞かせているような、頭の中で為された言葉の反芻が口から漏れ出ているような印象を受けるのである。言い換えれば、そのとき彼の言葉は誰にも向けられていない。どれほど一見質問に答えているように見えても、会話が成立しているように見えても、そう思える。つまり礼儀がどうのこうのいう以前に、ダイアローグとして常に不完全だという気がするのである。
 ところで、例えば教師からテストが返却される。100点であった。そのとき「わ、俺、天才や!」と教師に向かって叫んだとして、それは果たしてタメ口として非難されるようなものだろうか。教師と生徒の個人的な関係性を抜きにして考えるが、一般的にそれは、生徒の釈明としてはおそらく「独り言」であり、また教師もそう解するがゆえに許容するはずである。あらかじめ釈明が準備されたこうしたタメ口は、非礼の謗りを回避するためのひとつの方便であって、これに類することは日常生活のなかで皆やっているのである。ただ亀田の場合、ほとんどがこれだというだけにすぎない。ほとんどが「独り言としてのタメ口」である。
 僕は亀田興毅という子は、意外と、よく言えばシャイで空気が読める、悪く言えば小心な子だと思う。彼は、こういう喋り方をすれば無礼だと感じる人間がいるということを分かっている。ゆえに、意識するかしないかは別として、ほとんどの言葉を「独り言としてのタメ口」として発声する方法を編み出したのではないか。
 こんなことは無論僕の勝手な想像にすぎない。明確な根拠はどこにもない。しかし、このように喋らねばならない、あるいは喋ってしまう人間の背後には、やはりなにか大変孤独なものを感じざるをえない。それは具体的に言えば「マンガ頭」で書いたようなことに繋がっていて、あの文章の妥当性を顧みる気は僕にはないが、少なくとも僕の実感としては、やくみつるや勝谷のようないかにもPTA的な物言いはまったく面白くないのである。それが正論であればあるほど、ますますそうである。
法師、琵琶鳴らせど
 あのー、しょーもない話なんですけどね。
 僕、ここ1年くらいアメ村の、そこで撮影したりするとヤイヤイうるさいことで有名なファッションビルの某店で服買ってるんですけどね、ずっと気になってることがあるんです。

 そこの店員なんですけどね、若作りしてるけどオッサンですよ、あれ店長かな。そいつが店に入るなり近づいてきて、いろいろ勧めてくれるんですね。これが今何パーoffでお得だとか、これが今向こうでごっつい人気があるとか。

 でもこっちは基本的に服なんてなんでもいいですから、「あー、そうすか」とか言って聞き流すんですね。まず、面と向かっては喋らないですね。僕が棚を見てて、僕の横顔に向かってオッサンが熱弁をふるうんです。結構近いんですよね、顔が。

 よー喋るオッサンでね。声もデカいし。口角泡を飛ばすんですけども、あるとき顔見たら、なんでか知らんけど、ずっと目つぶって喋ってるんです。半開きやったかな。いやつぶってましたね、あれは。つぶってた。

 といって、別段熟考する風でもなければ痛みに堪える風でもなくてですね、目をつぶっているという以外は何一つ変わったところのない表情で、うなずいたり愛想笑いしたりするんです。

 おかしいな、と僕も思って。ずっと見続けるんですけど、ずっとつぶってるんです。何十秒も目つぶって喋ってるんですね。

 なんていうんですかね。故・遠藤誠氏がそういう喋り方してましたけどね。あの、怪物弁護士でお馴染みの。分かんないですかね。あと誰かいましたか?、ずっと目つぶって喋る人。昔、灘儀武がネタでやってましたけど、あれもちょっとちゃうんやなあ。

 まあとにかくそれ以来僕も気ぃつけて見るようにしてるんですけど、こちらに歩いてくる時はしっかり目開けてるんですね。やっぱり歩く時は目を開けるんですね、危ないから。で、話し始めるとすぐ目つぶっちゃうんだ。下手したら、お互いに正対してね、面(つら)と面(つら)突き合わせて喋るときですら目つぶってますね。

 あれ、なんなんですかね。不自然なんですよ、とにかく。子供が見たら率直に言うんでしょうけどね。おっちゃん、なんで目つぶってんの?って。でも僕、子供じゃないですから。猛烈に不自然さを感じながら、そしらぬ顔で喋りますけどね。でも、ハタから見たら、オッサン、起きてんのか寝てんのか分かんないんですよね。寝言を言う、って日本ではこれあんまりいい意味じゃないですよ。

 なんか後ろめたいことでもあるんやないかと思うんです。僕に言うてること全部ウソとか。それはないですかね。で、僕も行ったら大抵何か買いますからね。そんなに気に入らなくても「まあええわ」と思って。だから少なくともね、この着こなしの着の字も分からん奴をまた口車に乗せたったぐらいは、オッサン思ってると思うんですよ。その罪悪感か、もしくは己の弁舌に陶酔しているか、あるいはただのクセなのか。

 でもやっぱり、なんとなく僕は、親切さをアピールしながら腹の中で舌出してる感じがするんですよね。そういうの、やめたほうがいいと思うなあ。これ言ってあげたほうが「親切」ですかね。なんか隠してることがあるんやないか。目を見てよー喋らんということやないか。ウソが顔に出とるやないかって言われてもしゃーないですからね。言ってあげようかなあ。

 とにかく不安で不安でしゃーないんですよ、これやられると。第一、ずっと目つぶって喋ってて、ある瞬間いきなり目開けたら、これは怖いですよ。普通、ドキッとしますね。

 先日また行ってきたんですけどね。相変わらず目つぶって喋ってましたね。尋常やない声のデカさで、まくし立ててましたね。何も買わんと帰ってきちゃいましたけどね。
マンガ頭Ⅱ~足をピーン
 僕の地元ではリトルリーグが盛んでなく、市内の野球が好きな子供の多くはまずソフトボールをやり、中学校に入ってから野球に転向するというのが一般的であった。
 
 僕も小学校3年からソフトボールを始めた。
 5年生になると対外試合がある。他の学校が主催する交流戦や市の大会である。
 僕はピッチャーだった。
 チームは1年間無敗で、市の大会でも優勝した。負ける気がしなかった。僕はほとんど点を取られた記憶がない。まったく、あのときの獅子奮迅の活躍を、世界中の女という女に見せてやりたいくらいである。
 
 しかし6年生になって、何故だか球が荒れ始めた。
 自分で修正しようにも、どうにもならない。ひどいときには、ストライクを取る、それだけのことが全くできなくなる。おかしいおかしいと思っているうちに四球を連発し、ランナーのたまったところで痛打を浴びた。
 
 このときのトラウマだろうか。僕は今でも少年野球の指導者たちが嫌いである。彼らは押しなべて無為無策であり、僕がマウンドで苦しんでいる時、なんら具体的な修正点を助言できなかった。米屋のオッサンであったり、県庁の職員であったり、学区内の有志の、別に経験者でもない、ただ野球が好きだという理由でコーチ面している連中なのだからそれも当然である。四球を出せば「丁寧に投げろ」と言い、打たれれば「(球を)置きに行くな」と彼らは言ったが、それでは一体どうすればよいのか。
 
 しかし一方でそういう時、僕自身の心も荒みきっていたのだった。打撃陣が踏ん張って僕の喫した失点を取り返し、逆転したりすると、喜び狂うチームのなかで僕はひとり、みるみる憂鬱になった。もう勝とうが負けようが、試合後「打線は良かったがピッチャーがねぇ」と言われるのは確実だからである。また逆に、守備陣がエラーして僕をさらに窮地に追い込んだとしても、僕は一向に腹が立たなかった。むしろ親近感すら覚えた。惨敗の責任、もしくは叱責の矛先が分散されるからである。
 
 この地黒の子は、なんていやらしい子だろう。
 要するに僕は一人でソフトボールをやっていたのである。
 
 もちろん、調子の良い時もあった。ただ好不調の波が激しかったのである。そしてその波形の極端さに大きく影響していたのが、オヤジによる度重なるフォーム改造であったことは間違いない。
 
 オヤジはチームの指導者ではなかったが、僕が不調になると勝手に「フォームを変える」と言い、それで一時調子も上向いたかに見えるが、すぐに崩れる。また「フォームを変える」。その繰り返しである。要するに本質的な改善は少しも為されなかったわけだが、その都度、僕はオヤジの考案した(いつ、どんな顔で考えているのか知らないが)奇抜な投法で衆目を驚かせねばならなかった。それは提案ではなく、強制であった。
 
 大変、恥ずかしい思いをした。

 あるとき、ひどく調子を崩し、オヤジがまたぞろ「フォームを変える」と言い出した。それで参考にしたのが、当時「ドカベン」の続編として連載が始まっていた「大甲子園」であった。うろ覚えだが、確か次のような話である。

**********************
 
 3年の春の大会を終えて野球部を辞めていたエース里中が、地区大会決勝の直前に帰ってきた。数ヶ月のブランクはあれど、さすが里中である。投球練習を見守る誰もがそう思った。しかし捕手、山田だけは違った。投球を受けながら「里中、これじゃダメだ」と言う。「どこが?」と当惑する里中に対し、山田は「これは自分で感覚を思い出すしかない」と言って教えない。
 そして試合当日。ついに里中は自らの欠点を自覚できないままだった。試合前の投球練習で、もうどうにでもなれと里中は投げる。そのボールはストライクゾーンを大きく外れた。しかし山田は叫ぶのである。「それだっ、里中!」。不思議がる里中をよそに山田は思う。この決勝当日になって修正できるとはさすが里中だ。よーし、これでいけるぞ、と…。
 山田によれば、里中のフォームは好調時にはユニフォームの胸のマークの位置まで左足が高々と上がる。しかし手を抜いているわけではないが、ブランクの為に自然に体が楽をしたがり、足がその半分くらいしか上がっていなかったのだ…。

**********************

 オヤジはこの話にいたく興奮したのだろう。「里中のフォームを参考に、フォームを一から作り直す」と言った。僕は恐れおののいた。一体、どんな風変わりなフォームで投げさせられるのだろうと。野球のアンダースローとソフトボールの投球フォームは、言うまでもなく全く違うのである。
  
 かくして僕は投球開始後、すぐに三塁側に体を捻り、そこで高々と足をピーンと上げ、それからその反動で(?)、捻りを利用しながら腕をスイングするという、非常に物珍しい投法になってしまった。
 
 足を上げるところまでは、里中というより元巨人の西本聖を思わせた。
 チームの指導者たちは呆れ顔であった。あるいは苦笑していた。
 
 事実、周りのどこを見渡してもそんな珍妙な投げ方をしている者はいなかった。当たり前である。そもそもソフトボールは打者と正対したまま投げるのが普通であって、体を捻るだけでも特異なのに、足をピーンと上げるなどとは異端も異端、常識を大きく逸脱していた。
 
 しかし、常識の内か外か、そんなことはどうでも良いのだ。僕にとって最も切迫した問題は、このフォームが以前に増して恥ずかしいということだった。子供心に、自分はなにか卑猥な、はしたないことをやっているんじゃないかと思った。
 
 だがオヤジはお構いなしである。「大甲子園」の理論を敷衍したに違いないが、「足を際限なく高く、上げれば上げるほど球威が増す」と、ほとんど力学的な根拠のない理論を強弁し始め、従順にも僕はその通りに、何者かと競うような必死さで高々と足をピーンと跳ね上げた。そして少しでも足が下がると、「楽をするな!」とオヤジの叱責が飛んだ。
 
 県大会の本選に入り、僕はそのバレリーナのようなフォームで投げ続けた。周囲に奇異の目で見られても。僕は足をピーンと上げ続けた。にこやかに観戦する父兄の合間で、オヤジが般若のような顔で睨んでいるから。こんなに足をピーンとさせた野球少年がかつてあっただろうかと思うほどの、あられもない足の上げようであった。

 だが結果として、僕らのチームは勝ち進み、ついに優勝してしまった。「それもしかしてソフトボール?、それともソフトボールダンス?」と今は亡きケンカ十段・芦原英幸(「空手バカ一代」参照)なら言うであろう、奇妙なフォームの地黒の少年は、とうとう県の優勝投手になってしまった。
 
 そのとき、嬉しかったのかどうか。不思議なことに僕は全く覚えていない。ハッキリ覚えているのは、祝勝会の帰りのバスで泥酔したオヤジが窓の外に嘔吐するおぞましい光景である。
 
 しかし今にして思うのは、こうしたまかり間違った「実績」によって、スポーツマンガ頭のオッサンは加速度的に狂っていくのだということである。そうなると一体誰がブレーキをかけられるというのだろう。僕には分からない。
マンガ頭
 今さら何や?、という感もあるが、年末だからいいだろう。亀田兄弟に続いて福岡ではこんな姉妹が活躍しているらしい。

「山田姉妹」

 二者の共通点はオヤジが並々ならぬ情熱(己の人生を賭ける、といったような意味である)で子供に格闘技の指導をし、かつその指導法が「独特」であるということである。
 僕が亀田兄弟のトレーニングを初めて見たとき感じたのは、要するにこれは「はじめの一歩」等の格闘マンガの影響ではないかということだった。しかし亀田兄弟の「ピンポン玉避け」はまだしも「小石避け」のアレンジだが、山田姉妹の「枯葉キャッチ」にいたってはそのまんまである。結局、トレーニング自体は少しも「独特」ではない。「独特」なのは(これも、後述するが、本当は全く『独特』ではない)、マンガに書かれてあることを実行し、継続する姿勢である。

 マンガの影響を強く受けた亀田兄弟の「独特さ」は、トレーニング法にとどまならい。興毅が世界戦に勝ったとき、あるいはそれ以前から「オヤジのボクシングが世界に通用することを示したかった」などと言っていたが、これもそのままのセリフが「はじめの一歩」に出てくる。しかしたとえそれが「模倣」であったとしても、僕は彼が嘘を言っているとは思わない。彼は本気でああ言ったのだと思う。だとすれば、こうした影響は単に練習法を真似るといった程度の影響とは次元が違う。マンガは彼の人間性の最も深い部分にまで食い込んでいる。言い換えれば、彼はマンガのなかを真に生きているのであって、したがって彼また彼らの言動がどこかマンガ的な過剰さを帯びるのは必然である。そして付け加えれば、彼らのことを常識がないといって批判するのは、同様の理由で無駄である。

 さらに、時々彼がヤンキーであるというような言い方を聞くが、それも誤っている。大阪に彼のようなヤンキーがいないことだけは確かである。ヤンキーというのは(それを厳密に定義しないまま話を進めるが)、僕のイメージでは基本的に「仲間」のなかで生きているはずで、彼のように「仲間」を持たず、「家族」と「マンガ」のなかで生きるヤンキーなど僕は見たことがない。つまり、強いて言うなら彼はオタクであり、ヤンキーとは対極にある。「日本人の血からヤンキーとファンシーは絶対消えない」というナンシー関の至言になぞらえて言えば、ああ見えて彼は多分後者寄りだと僕は見ている。

 そうした彼のオタク性を批判するのは容易だろうが、差し当って僕の興味はそこにない。僕が魅かれるのは、むしろオヤジのほうである。なぜなら練習法を決定するのはオヤジの裁量であり、子供に(直接そう言ったかどうかは別にしても)マンガのなかで生きることを強いたのもオヤジに違いないからである。要するに最も深刻なマンガ頭は、おそらくオヤジの頭である。
 
 ええ年したオッサンが少年誌を読み、お、これは使えるやないか、これ、ええこと言うてるやないかと興奮し、大真面目に子供のスポーツ指導に取り入れる。しかし当たり前のことだが、オッサンの場合、単にマンガのなかを生きるわけにいかない。経済的な事情もある、地域コミュニティーとのしがらみもある、いっぱしの教育論も持っている、名声欲もある。それらが混交した複雑な思いを抱えながら、しかしオヤジは子供と一緒にマンガの世界で奮闘しなければならない。素早く、ピンポン玉を投げつけなければならないのである。その意志には、なにかぞっとするような強さがある。無論、滑稽さの裏返しとして、である。

 そして、これが最も重要なことだが、亀田オヤジやあるいは山田姉妹のオヤジは海面に現れた氷山の一角に過ぎない。たまたま彼らの子供が強かったから海面に浮上したまでだ。海中には、無数の「ポスト亀田」、「ポスト山田」らがひしめき合っている。そして彼らは己の普段の行いを鑑みて、亀田親子が日本中からバッシングの嵐にさらされているときでさえ頑として擁護したに違いない。それが自分自身を護ることにほかならないからである。
 
 マンガ頭のオッサンが子供にスポーツを教える。別に格闘技に限った話ではない。野球であろうがゴルフであろうがサッカーであろうが、ありうる。むしろそちらのほうが多いかもしれない。教えられた子供は幸せなのか、あるいは可哀想なのか。そんなこと僕は知らない。というより、僕はその問題に関して曖昧な態度を取らざるを得ない。なぜなら僕自身、この滑稽な風景に見覚えがあるから。
 (続く)
ステンレスの1stアルバム発売
 ステンレスの1stアルバムが発売された。
 結成から実に13年を経て作られたこの作品のリリースにあたって、僕は微力も微力、ほとんど協力とは言えないかもしれないけれども、関わらせていただいた。
 
 彼らは僕の友達である。だから13年の間、その折々にバンドがどのような状況にあったのかを僕はおおよそ知っている。当たり前の話だが様々な事があり、それらは、紆余曲折などとあっさり書いてしまうにはいささか濃密だったかもしれないが、しかし僕はペシミスティックに彼らを語るつもりは毛頭ない。ただ、この作品に彼らの13年もの年月が賭けられていることは疑いがない。

 2ヶ月前、未マスタリングの音源を僕は聴いた。進化していると感じる一方で、僕は彼らが根っこの部分でまるで変わっていないことに驚いたのだった。「メロディの良さ」などという抽象的で、ヌエのようなものに、こだわり続けているのである。そのために、彼らは容易に考えうるはずの様々な選択肢を捨てていると思った。僕はずっと、「メロディの良さ」なんてものは無いのだと彼らに言いたかったような気がする。なぜなら、彼らの姿勢はおそらく滑稽であるから。しかし誰もそれを笑うことはできないはずである。
 
 ボーカルの大谷君が僕に「若いバンドには出せない音でしょ。せやけどオッサンの出す音じゃないけど」と言って笑った。彼の言わんとすることはすぐに理解できたし、そして事実そうなのだろうと思った。しかし、そのとき僕は不意に、その表現は半分当っているが半分は誤っていると感じた。

 ポップミュージックを書くということは、そもそもオッサンの仕事じゃないのかと思ったのである。これは音楽を聴き始めたとき漠然と了解していて、その後より多くの音楽に接するにつれてなし崩し的に忘れていった一つの個人的な「感覚」である。もちろん、ここでいうオッサンとは、今ごろになって押し入れからギターを出してきて懐メロを演奏するような愚劣な連中とは異なる。むしろそういう、音楽とうまく付き合う方法を取るに取れなかった連中にこそあてはまる呼称である。
 
 僕はその「感覚」を忘れていたと書いた。しかし何年かに一度ふと思い出すのである。例えば97年、羅針盤の1stアルバムとラブクライの1stアルバムが、まるで示し合わせたようにほぼ同時期に出た時がそうだった。これら2枚のアルバムは、その当時溢れていたどのポップソングよりも、ポップソングとして優れていて、かつ、それらへの強烈な批判になっていると思った。
  
 余談だが、僕の記憶では「らご」がリリースされる数ヶ月前、某シンガーソングライターが「金字塔」というアルバムを発表していた。その後山本氏が、あるインタビューでその大仰なタイトルを嘲笑し、そういうタイトルは本来「らご」のようなアルバムのためにあるのだと言わんばかりの不遜な態度を取っていた。僕は「金字塔」を聴いていないし、山本氏が聴いていたのかどうかも知らない。だが、山本氏の態度がごく自然な態度だと思えたのを僕は覚えている。
 
 要するに「音楽」にとって、一般的な意味での若さは少しも「武器」ではないのである。それは単にレコード会社にとって武器であるに過ぎない。したがって若いのにすごいとか、若いから可能性があるとか、そういう言い方はすべて空虚である。にもかかわらずそれはほとんど疑われていない。そしてその傾向はますます強まっているように思う。しかし、例えば山本氏以上の「若さ」を持つ音楽家が、若者の中にどれだけいるかを考えてみればよい。ここでいう「若さ」は、もちろん実年齢とは無関係である。

 その意味で、大谷君の言う「若いバンドには出せない音。せやけどオッサンの出す音じゃない」は、正確に言うならば「若くて、同時にオッサンの出す音」である。それらはしかし、見かけほど違っているわけではない。ただ、そのこと自体が「武器」であると言うほかない。

 思い出せば、僕がステンレスに出会ったのも、あの97年であった。それは他人にとっては何の意味も持たないだろうが、僕にとっては奇妙な巡り合わせのように感じるのである。
体の向きを変えるなどした
*********************************
 被害者から「やめてください」と言われ、手を放して会釈したが、涙ながらに「恥ずかしくないんですか」と非難されると、体の向きを変えるなどした。その後、男性乗客に取り押さえられ、京急蒲田駅事務室で警察官に「わたしがやった」と痴漢を認めたという。
 (中略)
 罪状認否後には、逮捕直後の“自殺未遂”も告白。「有名人なので騒がれるのが嫌で、仕方なく駅事務所に行った。このままでは犯人とされ、家族が報道被害に遭うと考え、ネクタイを外して自分の首を絞めたが、止められた」
(12/7『スポニチ』より)
* ********************************

 数年前、「声に出して読みたい日本語」という本がベストセラーになりましたね。
 で、続編も出ました。この先、出る予定はあるのでしょうか?
 僕は全く読んでいないので、これがどういう本なのか分からないのですが、上のような文章を入れたらいいのじゃないでしょうか。
 差し出口ながら。
教え魔その2
(前回の続きです)

 問題は、一体「教え魔」なる存在が撲滅しなければならないほど悪いのかどうか、ということである。そして、そのようなものが本当にいるのか、ということだ。

 私が前回の最後に書いたような状況は現実的にはありえない。私はそんな練習場を見たことがない(見たとしたら手を叩いて喜ぶだろう)。
 
 では、何故こんなことになってしまったのか。実状を推測する前にティーチングプロ(レッスンプロ)の存在に触れておかねばならない。
 
 ゴルフにおける「プロ」とは、トーナメントプロとティーチングプロの二つに大別される。
 我々が知っているタイガーウッズや丸山茂樹やジャンボ尾崎は、言うまでもないだろうがトーナメントプロである。ティーチングプロとはゴルフの知識、理論に通暁し、主にアマチュアゴルファーの指導を行うための有資格者を指す。
 名目上ゴルフの普及・発展を目的に活動する彼らは、簡単にいえばゴルフの先生であり、人にゴルフを教えて生計を立てる者のことである。
 そして彼らの多くは、個々のゴルフ練習場に所属している。

 もうお分かりだろうか。この文書の奇妙な言い回しは、ティーチングプロそしてゴルフスクールを開講する練習場側と、「教え魔」なるものとの利害が衝突すること、もしくは衝突すると書き手が考えているらしいことによって生まれたのではないかと私は思うのである。

 それをふまえてもう一度文面を見てみよう。

***************************

 教え魔撲滅宣言!!
 
 こんな教え魔に会ったら
 練習場従業員に連絡して下さい

 
 気持ちよく練習したい、そんな時、後ろから今のスイングはちょっと・・・
 教えて貰いたかったらこっちから聞くのに・・・練習ヤーメタ・・・
 女性一人で練習場に行くのは・・・教え魔のいる練習場は絶対行きたくない!
 あなたに教える資格あるの?今まで調子良かったのに!教わってからガタガタ
 あなたは教え魔になっていませんか?
 頼まれたら教えてあげる 教え上手
 頼まれないのに教える 教え魔

 [イラストに添えられたコメント]
 (オッサン)次は俺が教えたろか?
 (女)教えて欲しくないのに
    絶対訴えてやる!
***************************

 すると例えば「あなたに教える資格あるの?」というセンテンスの“資格”とは、「おまえに生きる資格はない!」というような抽象的な意味ではなくて、明確に“ティーチングプロ資格”のことである。

 さらに、この部分は皆さんきっと首を傾げられたと思うが、

*************************** 
 頼まれたら教えてあげる 教え上手
 頼まれないのに教える 教え魔
***************************

 真っ当な言語感覚を持つ人ならば、100人いれば100人がこう思うはずだ。この定義はおかしい、と。
 おそらくここは書き手が最も頭を悩ませたところで、「うまく言いたい」という欲求と文言の正当性との間で懸命にバランスを取ろうとし、その結果すっかり混乱してしまったに違いない。
 しかし書き手の思惑をどのように好意的に忖度したところで、「教え上手」と「教え魔」が対立概念でないことは自明であるから、土台バランスを取るなど無理な話である。

 ところが書き手の頭には、鮮明に対立構図が浮かんでいたのだ。つまり「ティーチングプロ」と「教え魔」である。本当はそう書きたかったに違いない。だが、それではあまりに露骨でいやらしい。差し出がましい感じがする。なにかカネの臭いがする。では、どうする?、と考えて思いついた対立要因が、指導技能の差であったのだろう。「ティーチングプロ」を「教え上手」と言い換えたのは、おそらくそこに起因している。
 逆に「今まで調子良かったのに!教わってからガタガタ」などと、「教え魔」の指導技能をことさら低く見せようとする(そもそも定義に従うなら、『教え魔』の指導技能を決定することは不可能なはずであるにもかかわらず)のも同様の思惑であると言ってよい。
 ただし、カネの臭いがどうであれ「ティーチングプロ」と「教え魔」との最も本質的な違いが、レッスン料、すなわちカネが発生するか否かであることに変わりはない。
 よって本来は「金を貰って教える」あるいは「金を貰わずに教える」というべきところを、またぞろ“いやらしい”という理由で「頼まれたら/頼まれないのに教える」と婉曲的に換言したのである。

 さて、ここまで書けば、この文書の本当の姿が見えてきたはずである。
 つまりここでいう「教え魔」とは、「ティーチングプロでないくせに人にゴルフを教える者」という意味であり、それ以外のなにものでもない。それが実在するか否かもここでは問題ではなく、極言すれば「教え魔」とは彼らが捏造した架空の存在である(それはどうやら下品なオッサンの姿形をしているらしいが)。なぜなら、つまるところこの文書は「アマチュアに教わるな。うちのティーチングプロが教えまっせ!」という売り文句にほかならないのだから。

 要するに一種のマッチポンプなのである。「教え魔」が大暴れし、その被害者が続出しているという事件を捏造して、それを撲滅するように見せかけながら、一方でレッスン生増加を目論んだ営業戦略。客の目線で書かれたような文書は、その実100%練習場側の目線で書かれている。“いやらしい”とはこういうことを言うのである。

 勿論、これは私の考えすぎかもしれないが、そうとしか思えない。
 だが、もし彼らティーチングプロが、本気で架空の「教え魔」を脅威に感じ、営業を妨害されると考えているなら、こんなに情けない話はない。
 プロのミュージシャンが、ストリートで弾き語る輩を営業上の理由で敵視したりすれば、物笑いの種になることは疑いを入れないのである。

 断っておけば、私はティーチングプロや練習場自体を否定しているのでは勿論ない。私が思うのは、もう少し書きようはあったろうということだ。
 何かを書き表すということは、同時に何かを隠すということである。文学であろうが音楽であろうが、あるいは全ての美術はそうである。
 だが隠したはずの尾がだらしなく露呈しているとすれば、これは大変見苦しい。その見苦しさを転倒させて、私は“名文”と書いたが、しかし見苦しさは普通、単に見苦しいだけである。
 なんなら私が実際に教えて差し上げようかとも思うが、頼まれないのに教えれば撲滅されかねないのでやめておくことにする。

 最後に。「他人の練習にヤイヤイ口を出し、裏づけの無い技術的な能書きをさんざん垂れる、御節介極まりないうえにゴルフの上達には百害あって一利なしの、非常にウザイ見ず知らずのオッサン」と私は前回「教え魔」を定義した。もし仮に、このような人物が本当にいるとして、彼と私の頭のなかにある「ティーチングプロ」とを比べれば、考えるまでもなく「教え魔」のほうが私は好きである。
教え魔
06-12-02_08-34.jpg

(画像をクリックしてご覧ください)

 皆さん、目を疑いませんか?
 これは、某ゴルフ練習場の告示板に実際に貼られていたものである。

 下に団体名(社団法人)が記されているので、これは同団体のいわばマニフェストの一種だと考えてよいのだろうが、ゴルフをやらない者には怪文書としか思えないこうした言説が堂々とまかり通っているのが市井のゴルフシーンだとまずは言っておこう。
 しかしながらボクメツとは穏やかではない。書くまでもないだろうが、一応字義を確認しておきたい。

撲滅―[名](スル)完全に打ち滅ぼすこと。根こそぎなくしてしまうこと(大辞林)
 
 本来この言葉が麻薬、害虫、犯罪者、疫病などに対して用いられるのは、皆さん無論ご存知だと思うが、ではその覚醒剤や白アリや痴漢らと並び称されるところの「教え魔」とは、一体何者だろうか?

 ここで、画像ではおそらく判別しづらいと思うので全文を写しておこう。

********************************

 教え魔撲滅宣言!!

 こんな教え魔に会ったら
 練習場従業員に連絡して下さい


 気持ちよく練習したい、そんな時、後ろから今のスイングはちょっと・・・
 教えて貰いたかったらこっちから聞くのに・・・練習ヤーメタ・・・
 女性一人で練習場に行くのは・・・教え魔のいる練習場は絶対行きたくない!
 あなたに教える資格あるの?今まで調子良かったのに!教わってからガタガタ
 あなたは教え魔になっていませんか?
 頼まれたら教えてあげる 教え上手
 頼まれないのに教える 教え魔

 [イラストに添えられたコメント]
 (オッサン)次は俺が教えたろか?
 (女)教えて欲しくないのに
    絶対訴えてやる!

* *******************************

 結論から言えば私は、これは苦渋の名文だと思う。この、絹布を引き裂くかのごときヒステリックさはともかく。なぜこんな文章になるのかは後述しよう。
 
 さて、「こんな教え魔に会ったら」と言うわりには、教え魔がいかなるものなのか、あるいは撲滅宣言を発令するに足るだけの、対象の犯罪性が今ひとつ判然としない。
「頼まれないのに教える 教え魔」と、一応の定義はある。しかしこれをそのまま受け取るならば、教え魔のほうに、少なくとも「撲滅」されるいわれはないと言わねばならない。そんなことで痴漢扱いされては堪ったものではないからである。勿論イラストのように、見ず知らずの嫌がる女性に手取り足取り教えるのは悪質だろうが、それならば別のハッキリとした罪名がある。
 
 では教え魔とはなにか?。「他人の練習にヤイヤイ口を出し、裏づけの無い技術的な能書きをさんざん垂れる、御節介極まりないうえにゴルフの上達には百害あって一利なしの、非常にウザイ見ず知らずのオッサン」とひとまず仮定してみる。ゴルファーのなかに残念ながらそういう者がいるであろうことは、容易に想像しうるから。
 そしてさらに類推する。

(皆さんすでにそう思っておられると思うが、これはそもそも『オッサンどっか行けや』と言えば済む話であるが、そのことはカッコに入れて考えてみる)。

 こうしたオッサンに捕まったら最後である。追い払うことも逃げることもできず、ただただカラまれ続けるのみである。精神的にとても辛く、その苦痛は深刻である。
 さらに悲惨なことに、かかる不届き者は一人ではないのだ。それどころか、そこら中にウジャウジャと、巣窟と化した感すらある。あちこちで跋扈するオッサンと、すすり泣き、あるいは悲鳴を上げる被害者の姿が散見される。「あの馴れ馴れしい、デリカシーゼロのオッサンをなんとかしてくれ」と、訴え出る者が続出する。練習場に苦情が殺到する。
 その結果、練習場自体が大変険悪な、殺伐とした雰囲気になってしまった。これは営業上問題がある。諸悪の根源は、あの教え魔にほかならない。あの者どもを一掃しなければ、死活問題である。

 と、若干誇張しているが、こういうのっぴきならぬ事情でなければ「撲滅宣言」などは普通出ないはずである
 (続く)
頑張ってますよ
「練習生」
 
 呼べば集まってきますよ。
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。