out-of-humor2
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雑記2/26~陰の要素
●それまで腹を出して寝ていたオッサンが、イチローと椎名林檎の対談(「僕たちの音楽2/23」)が始まったと知るや跳ね起きた。なにか嗅覚が働いたのだろう。期待通り、大変面白かった。面白いというのは、語られた内容の奥が深いとか、認識が鋭いという意味ではもちろんありません。両者の本質的な“何か”が図らずも暴かれているという感じがしたということです。早くyoutubeかなにかでUPされないでしょうか。
●KEMURIが解散するらしい。彼らのライブには取材で何回か行った事があります。フロアにこぞった無数の「PMA」Tシャツが蠢動するさまに、その都度僕が何を感じてきたかは今さらここに書きませんが、両義的な意味で非常に真面目なバンドだったのだと思います。お疲れ様でしたと言いたいです。
●休日。自転車の後ろに嫁を乗せ、嘉村さんの「七月二十二日の夜」と青柳瑞穂「ささやかな日本発掘」を探しに図書館へ。「ささやかな日本発掘」という本は、小林秀雄と江藤淳の対談のなかで言及されていたので知ったのですが、実に面白そうです。江藤の発言の一部を引用する。

江藤 あの本の巻頭に、たしか“かけら”という短い文章がありました。何か宋青磁ですか、美術館のある部屋にはいって行くと、いい物の“かけら”ばかり、たくさん並んでいて、それが実に美しかった。一番最後に完全な形のツボがあった。その完ぺきさを見たらいやな感じがして、“かけら”を見ているときのような自由さがなくなり、ふりかえるとやはり“かけら”は醜かった、というような体験が書いてあったと思います。

 僕は言うまでも無く骨董の世界に暗いのですが、リアルな“もの”の手応えがある素晴らしいエピソードだと思います。一読して、感情の動きはアンリアルなほど突飛ですが、こうしたことはあり得るし、事実かつてこれに似た体験を僕もしたことがあるような気がする。江藤の要約からのみ判断するのは乱暴だとしても、こういうことが書かれた本が面白くないわけがないと思います。

「タイトルがまずええよな。大体“日本”なんてものは、御大層に、威張って発掘されるのが通例やないか。それをささやかにやろうというんやから品がある」
 などと嫁に語りながら、図書館の正門に至ってみれば、なんと閉館日であった。
 
 嫁が「買いたいもの」があるというので、心斎橋ロフトへ行った。毎度のことだが「買いたいもの」へは容易に到達せず、店内で迂回に迂回を重ね、道草を食うので、「ナニ中だろうか?、今ナニを探し中だろうか?」と背中越しに嫌味を言い続ける。
 
 どうしても「ささやかな日本発掘」が諦めきれず、ジュンク堂へ。その道すがら、ペットショップがあったので子犬を眺める。「可愛い可愛い」としきりに繰り返すので、「噛んだら痛いけど」「噛まれたら血が出るけど」と負けずに繰り返す。
 
 ジュンク堂に到着し、「ささやかな日本発掘」が講談社文芸文庫で復刊されていることを知るも、それが売り切れであるばかりか、絶版だと聞かされる。
 その後、ゲーム屋へ。別に買いたい物もなかったので、当然のように何も買わずに出る。
 
 ここまで、休日の過ごしぶりとして、なにか大変“流れ”の淀んだ感じを持ったので、気晴らしに甘い物でも食いに行こうや、ということになり、難波ウォークのマンゴー氷屋を訪れるとシャッターが降りていて、現在改装中ということであった。
 
 こうまで店に、あるいは街に拒まれると、なにか面白い、上等やないかという気持ちが湧いてきた。が、さすがに嫁がグズリ始めた。盛んに「おもんないおもんない」と不満をこぼすにとどまらず、「あんたのせいちゃうか?。あんたの陰(いん)の、陰の要素のせいでこうなるんちゃうか?」と馬鹿なことを言う。
「陰の要素とはなんのことやねん!」僕は声を荒げたが、内心少しも怒ってはいなかった。むしろ大いに首肯し、そうや、俺の心の陰の要素、負の念力、NMA(ネガティブ・メンタル・アティチュード)がこの異常事態をもたらしたのだと誇らしく思ったといえば、いささかおこがましいが、こちらは既にそういうくだらぬテンションになっている。

「もう、しゃーない。ビリヤードでもやろや」と嫁が言った。
 嫁としては、せっかく遊びに来たのに、化粧して表に出たのに、何もせぬでは阿呆らしい。せめて“何かした”という手応えがほしいというところだろう。その気持ちは理解できる。僕らは堀江のビリヤード屋に向かった。そのとき16時を少し回っていただろうか。
 大通りに面したマンションの、吹き抜け部分の階段を登っていった2階にビリヤード屋はある。一階から仰ぎ見ると、店内から外に漏れ出るはずの窓明かりが少しもないことに、僕は気付いた。嫁も、もちろん気付いている。まず嫁が恐怖に駆り立てられたように走って階段を登った。沸沸と湧き上がる歪んだ期待感に恍惚とした僕は、嫁の背中を追いながら「まだ開店前かもなぁ」と言った。

「うわっ!」鋭く叫んだのち嫁は立ちすくんだ。「…ない…」
 
 遅れて、ガラス扉越しに店内を覗き見ると、かつてめいめいが重厚な存在感を放っていたビリヤード台が一台もなく、数台のソファーが仰向けにひっくり返って、がらんとした部屋の端に寄せられていた。開店前どころか、もぬけの殻であった。

「ここまでくると、少し怖いね」
 いやはや参りましたとでもいうような白々しい僕のたたずまいを憎々しげに横目で捉えながら、嫁はしかし相当落胆したようであった。
「まあ、そう落ち込むな」僕は微笑んで言った。「こんな体験はそうそう無いで。仮におまえ、本が見つかったとしても、マンゴー食ったとしても、ビリヤードやったとしてもな、ええか悪いかは別として、こんな強烈な感動があるとは思えんで。俺らは今日ヒドイ目に遭うた。しかし他人が遭わんような、どえらいヒドイ目に遭うた。それでええやないか」

 僕の声を、聞くとも聞かぬともつかぬ態度で嫁はぼんやりしていた。そのとき僕の頭に一つの考えが閃いた。
「そうや!、ええ名前のボクシングジムがあるから、その看板見て帰ろうやないか」
 僕は足取りも軽快にペダルを漕いだ。千日前通りから2本ほど南の通りを西に進み、桜川の駅が近くなってきた。しかしどうもおかしい。さて確かこの辺やけど、と独りごちながら当たりをつけていた場所を通ったのだが、不思議なことに店が見当たらないのである。

「あれ?」と思い、次は一度千日前通りに戻り、そこから「弓」の字状に、交差点ごとに道を折れながら南に下っていったが、やはり見当たらない。
 僕はこのジムの看板を見るために、嫁に隠れて三度ほど一人で訪れているのである。三度とも迷ったりしなかった。
「あれ、おかしいな。どこやったかな」僕がそう言って、今しがた通った道を逆からなぞろうとUターンしたとき、見かねた嫁が言った。

「潰れたんちゃう?」

 瞬間、言葉を失った。
 しかしそんなはずはない。ほんの数日前まで確かにPBBCはあったのだ。俺はこの目で見たんや、PBBCを見たんやと嫁を一喝し、最後に「ブログにも書いたのに…」と弱弱しく呟いて、再び「弓」の字状に、今度は北に向かった。
 
 だがジムは影も形も無かった。
 
 この事実は、先刻まで薄笑いを浮かべていた食えない男の心胆を寒からしめるに充分であった。ジムの消滅は、僕にとっては氷屋の改装やビリヤード屋の夜逃げなどとは比べものにならないほどありえない現象だった。ついこのあいだ僕は来ているのだし、公式サイトで見た、練習生やインストラクター達の健康的な笑顔は、沈みかかった船に乗り合わせた者の表情ではないと思われたから。
 
 しかし、現実にジムは無いのである。
 もうこれは、単なる偶然だとか運が悪いなどといって済ませられる問題ではないと思った。何かまがまがしい力が働いているとしか思えない。その力が僕の陰の要素とやらによるものかどうかは知る由もないが、もしそうだとしたら、これはあまりにも強力で、しかも不吉なものだ。不沈艦を撃沈せしめるほどの力であるから、もうほとんど魔族の所業である。僕はパニックに陥り、泣きそうであった。

 その後十数分、血眼になって、ネズミのように同じコースをぐるぐると周回し、それでもやはりジムは無く、すっかり慌てふためいてしまって、もう駄目だ、これは嫁の言うのが正しい、ジムは潰れて忽然と消え失せた、俺が消した、俺という悪魔の仕業だと観念して漕ぐのを止めたとき、嫁がいかにも呆れ果てた感じの口調で言った。

「あるやん、そこに」

 嫁の目線の先には、確かに見覚えのある黄色の看板があり、僕は「あッ、あッ」と短い声を発して、すがり付くような思いでジムに近寄り、真下から看板を見上げた。
 
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雑記2/19
●日本アカデミー賞の発表がありまして。僕は映画に対する興味ゼロですので、どうせノミネート作なんて全て観ていないと思ったら、「男たちの大和」があった(笑)。「男たちの大和」だけを観ていた(笑)。それにしても「フラガール」なんてほんとに面白いのかね。どうも困ったことに、受賞作のなかでまだしも観る気がするのは「時をかける少女」だけです。アニメですけど。
●久しぶりにカラオケに行きました。少し前に観たアメトークでガンダム芸人の面々が「哀戦士」(劇場版Ⅱ主題歌)をあまりに気持ち良さそうに歌っていたので、意気込んで歌ってみましたが、歌い終わって凹んでしまった。その後「めぐりあい」(劇場版Ⅲ主題歌)を歌って、やっぱり凹んでしまった。一体、モニターに次々と映し出される名シーンの数々を観ながら呑気に歌など歌っていられる者が、僕の世代の男子にいるでしょうか。背後を取られたガンダムを救おうとコアファイターで特攻、玉砕するリュウ…。こんな場面を見たのち、間髪入れず2コーラス目を歌わねばならない。これは無理ですね。あるいはマチルダの輸送機がドムに叩かれるところ、スレッガーがビグザムに突っ込むところ、このようなものを観て平静でいられるわけがないのである。ことに我々の世代にとっては。ドッジボールでもなんでもよい、“後ろに目がついている”かのような避け方をしたとき、「俺はニュータイプだ」と内心思う奴が腐るほどいた我々のおめでたい世代にとっては。
●これも久々に「報道ステーション」を観たのだが、古館というのは年々痛々しくなってきますね。現地に松坂を追っかけていって中継で喋っているのだが、その問答の噛み合わぬことといったらない。また松坂の横に「報ステ」のコメンテイター栗山英樹(創価大卒)が座っていて、彼とのトークがまた別の意味で聞いていられない。「古館さん、松坂投手はね…」「いやでも栗さん、僕思うんですけどね…」などと、ほとんどの発言にいちいち相手の名前を入れ合うのは、なんのアピールか知らないが胡散臭いばかりです。
●O-CATの西に井岡弘樹のボクシングジムがあり、これは相当繁盛しているとある人に聞きましたが、そこからほんの数百メートル離れたところにこんなボクシングジムがあったんですね。
「POOR BOYS BOXING CLUB」
 なぜこのジム名にしたのか、ぜひ伺いたいです。会長さんはやっぱり、最近の若者のハングリー精神の無さを嘆いておられるのでしょうか。
雑記2/16
●去年書いたブログを読み返していて「ゴルフ狂番外編『河川敷の迷惑ゴルファー』」のコメントのところで、“この河川敷はオッサンらにとって本当に「憩いの場」なのだろう”と書いていて我ながら苦笑してしまった。コレを書いたときにはすっかり忘れていたのであるが、なんとも暗示的なコメントではないか。考えてみれば、仮に実父がああしたことをやっていたとしても、僕は少しも驚かないだろう。その資質は充分あると見ているから。
●「ガキの使い」出演で一躍知名度を上げたであろうムーディー勝山さんのレパートリーをyoutubeでチェックしたのですが、俄かに彼の行く末が心配になってきました。「後頭部に違和感を感じている男の歌」を聴いて、老婆心ながらこれでいいのかと感じるのは、それこそ「違和感」を感じているのは僕だけなのでしょうか。
 こんなことは第一に無粋であるし、また何を書こうが結局のところ僕の願望でしかないことを承知で書いてしまおうと思います。彼の容貌やなぜムード歌謡かといった前提の装置をすっ飛ばして考えれば、そもそも「右から左~」は、慣用句をフィジカルな現象として捉えた上で、浜田の「何がやねん!だから」というツッコミが端的に言い表したように、接近し目の前を通過する「もの」(ムーディー風に言うなら、“モヌゥォ”ですが)の“正体の知れなさ”と、“言及のしつこさ”が眼目だったわけでしょう。だとすれば「後頭部に~」でも、“違和感”という曖昧模糊とした(正体の知れない)熟語に対するコダワリが辟易するほど綴られていなければならないと思います(~ならない、などと義務的に書いたわけは後述します)。したがってサビ(Dメロ?)以降では、「今まで一度も大きい病気を~」などと説明的なセンテンスを入れる代りに、“違和感”という言語を理不尽なまでに押し、言語それ自体が持つ本来的な未規定性をこそ聴き手に印象付けるべきだったと思います。
「右から左~」を成功させた(ネタとして、という意味です)彼が、同様の手法を使えるこの曲でなぜそうしなかったのか不明ですし、もちろん、彼が前作を踏襲しなければならないイワレはないでしょう。しかし両者の「身体的な不快感をもたらす正体不明の“もの”」という通底音は似すぎています。また言うまでもなくメロも同じです。つまり新機軸を模索、などという道は初めから閉ざされていたので、作り手がどう考えようが一連の作品として聴かざるを得ない。そのとき問題になるのは、意匠ではなく強度です。そして強度が不足していると僕は感じます。分かりやすく言うなら、散漫で徹底性に欠け、それによって残念なことに、理不尽さがすっかり影をひそめ、妙に分かりのいい話になってしまっています。と、何を力みかえって論じているのでしょう、僕は。

 追記:と、思って、もう一度聴き返してみたのですが、結局僕の考えすぎで、彼に「身体的な鬱陶しさをもたらす正体不明の“もの”」というモチーフへの意識など無いか、あるいは希薄で、この曲に関しては単に「こんな瑣末事を歌ってみました」というところで立ち止まっているような印象です。つまりは「あるあるネタ」です。でもこのモチーフを「あるある」で終らせるのは勿体無いと思うんやけどなー。
質問責め
 年明け早々の話。練習場のフロントの女の子(20歳)と「ハチクロ」がどうのこうのと機嫌良く話していたのだが、「最近読んだなかでオススメの本はなんですか?」と聞かれて、まさか嘉村磯多だなどとは言えず、はたと沈黙してしまった。「きちがいやと思われるので、それは言えん。すまん」と謝った。彼女は森鴎外を読んでいるという。私は「あぁ」と唸った。「鴎外か…」。
 先日、同じ女の子に「最近のマイブームはなんですか?」と聞かれ、「マイブーム、マイブーム…」と言ったきり、言葉に窮してしまった。またすぐに謝ろうかと一瞬迷ったが、今度はしばらく待ってくれと言い、うんうん考えてみたが、いくら考えても無い。それでも、もう少しだけ時間をくれ、なにか出てくるかもしれんからと断って、さらにうんうん苦吟していると、女の子、シビレを切らしたか不憫に思ったか、「じゃ、今年の目標はなんですか?」と言う。「…今年の目標」と力なく復唱し、やれ、仕切り直しだ、と頭を切り替えて、今度は己の目標についてあれこれ思案を巡らせるも、これまた全く無いのであった。オッサンは明らかにウロたえていた。「なんでもいいんですよ、なんでもいいんですよ」と女の子は、走らぬ幼児を諭して追い立てるような口ぶりで言うのだが、それは分かっている、そのなんでもいいような事柄すら無いのだと心のなかで反論し、かかる大難題を吹っかけた女の子を恨めしげに見据えてみるが、彼女に悪気のあろうはずもない。やがて馬鹿らしくなり、「無いで。今年の目標なんて無いでぇ」と、そんなものは無いのが当然だと言わんばかりの大仰な言い方で、一回りも年長のオッサンが追い詰められて露呈したものは、いかがわしい開き直りであったろうか。
「なんかあるでしょ」
「無い」
「ほんまに、なんも無いんですか?」
「無いわ」
「じゃあ、ニートじゃないですか」
 女の子は笑っていた。
「そやな」ここぞとばかりの即答。「ニートや。精神的には完全なニートや」
 わりあい、強い調子であった。

 人生の後輩に勧める一冊の本も無く、マイブームも無く、今年の目標すら持たぬとは、なんと頼りがいのない男だろうか。ところが、実は本人そのことをさほど気に病んでいないふうだから、なお始末が悪い。
嘉村さんについて2
 しつこいようですが、
 ウラ・アオゾラブンコ

 念のため他の人のも読んでみたのですが。
 どうも嘉村さんのだけがひどいような気がしてなりません。
 天国の嘉村さんはどう思っておられるか。
 恥ずかしさのあまりノタ打ち回っておられるか、泣いておられるか。
 いずれにせよひどく心を痛めておられるに違いありません。
 井伏や小林といった海千山千の書き手は、なにか半笑いで書いているとしか思えない筆致です。
 そんなふうに書かれて、喜ぶものがいますか!
嘉村さんについて
 最近、本屋に寄ると必ず嘉村磯多さんの文庫を探しているのですが、これがまた示し合わせたかのように無いですね。
 ジュンク堂にすら、無い。
 確か嘉村さんに関しては選集を一冊持っていたと思うのですが、今手元になく、どこに行ったかも分からぬ有様です。誰かに貸したのか、失くしたのか。
 またどちらにせよ、その選集には私が是が非でも読みたい「七月二十二日の夜」が収録されていませんでした。
 そういうわけで「七月二十二日の夜」が収録された文庫はないものかと思って、折りにふれて本屋をうろついているのですが、無いものは無い。
 こういう人の本を広く読めるようにするのが出版社や本屋の務めだと思うのに、なんて怠惰な話でしょうか。 

 それにしても、これ(↓)を読む限り、嘉村さんの評判(回想録)がひどすぎる。
 あぁ、ひどい、ひどすぎる。

「ウラ・アオゾラブンコ~嘉村磯多」

 何といふ暗い陰気な男なのだらう…
みのりかわさん
 最近「きっこの日記/ブログ」を欠かさずチェックしているというKさんに教えてもらったサイト↓
「お笑いみのもんた劇場」

 やったねっ!
(↑「みのもんたの変わり身 そのまんま東 当選前・当選後」より)
帰省
 先日、1年ぶりに帰省したのだが親父が、
「市民運動を始めた」
 と妙な事を言うのである。
 聞けば、近所を流れる川の中州に手を加えて作られた簡易ゴルフコースが近く取り壊される運びとなったので、それに反対する運動だという。
 そのコースは、親父が実に足しげく通っていたところで、本人曰くコースレコードの保持者として君臨していて、まさしくコースの主(ヌシ)の名を欲しいままにしていたという。ゆえに誰であろうが芝に一歩足を踏み入れれば親父に「挨拶せぬ者はモグリ(親父談)」であるらしい。
 なればこそ、それが取り壊されると聞いて「領地を没収される気持ち」(親父談。彼お得意の戦国比喩)がしたのだとか。
 今、親父は運動組織の中心的存在として暇を見つけては署名を集めているという。

 この話を僕に説明する間、「市民の憩いの場」という言葉を親父は何度も使った。
「あのゴルフ場はな、市の水道局の外郭団体が運営しとってな、水道局を退職した奴が天下って高給を貰うせいで運営費は仰山かかるが、客足は伸びん。赤字がたまっていく一方じゃ。じゃからワシはな、そんなことを止めさせてな、ほんまの市民の憩いの場にな、しようと思うんじゃ」

「ゴルフ場を市民の憩いの場に!」いうスローガンを僕はかつて聞いたことがない。またそもそも、環境を保全する名目でゴルフ場建設に反対する市民運動ならいくらでもあるだろうが、ゴルフ場取り壊しに反対する市民運動というものがこの世にあるとは夢にも思わなかったので、僕は非常に感心して、目から鱗が落ちる思いであった。

 しかし話を聞き終わって、僕には喉まで出かかっていた「感想」があったのだが、結局言わず終いであった。
 よって、ここに記しておこう。
 
 親父、気をつけたほうがいい。「市民の憩いの場に」という言葉は、おそらく、こう揶揄される。それは市民じゃないだろう。市民とは、おまえのことだろう。おまえの憩いの場じゃないか、と。 

 
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