out-of-humor2
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雑記5/31
●最近「スウィングガールズ」「リンダリンダ」「ロボコン」「俳句甲子園 恋は五・七・五」といった一連の青春モノ(?)を借りてきて観た。以前にも書いたが、僕は誇張でも謙遜でもなく「映画をまったく知らない」ので、現在の邦画の水準が奈辺にあるかを見極めようとする気持ちなんてカケラもない。単に観た。単に観て、少々泣いただけである。しかし、なにか課外活動に打ち込む高校生の姿を描きました、というような作品が数年前立て続けに発表されたらしいということは分かった。そういうことはどこの世界でもありそうな話だし、僕がいちいち文句をいう筋合いでもないだろうが、なんていいましょうか、こういう事態を以て「活況」とするのであれば御同慶にたえぬ話です。ところで「スイングガールズ」と「俳句甲子園 恋は五・七・五」(そもそも、これはどういうタイトルだろうか)のDVDのジャケはなぜこんなに似ているのでしょうか。

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「スイングガールズ」

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「俳句甲子園 恋は五・七・五」

●社保庁改革関連法案。今日、本会議で採決されるようですね。しかし、あの厚生労働委員会での強制採決は何だったのだろう。採決をはかろうとする桜田委員長を阻止しようと「口を塞ぐ」という作戦にでた野党。口を塞ぐ。なんとアナログな作戦だろう。人力モザイク。しかしやられた方にしてみれば、この鬱陶しさはただ事ではない。喋ろうとすれば何本もの手がニュッと伸びてくる。払ってもまた伸びてくる。ドツかれるとか突き飛ばされたほうがまだマシかもしれない。とにかくこの鬱陶しさはたまらないだろう。

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雑記5/28
●ほんの気まぐれでTシャツを買った。薄い黄色地で左胸にワンポイントの赤いロゴがある。なんのことはない。ただの安いTシャツであるが、家に帰ってきてボンヤリ見つめていると、このTシャツはどこかで見たことがあると思えてきた。あれ、なんやろかとしばらく考えた結果、ありありと分かった。デビルマンやないか!
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●こういうことは過去にもある。買ったときは何気なく適当に買うのだが、その後考えると何かを髣髴とさせる。何年前か忘れてしまったが、これまた黄色のTシャツで、首周りや袖のところに黒いラインが入っている。僕はなんとなくこれは何かに似ていると思ったが、何に似ているかが分からない。なんやろか、と思って暫時眺めていると不意に分かった。ブルース・リーやないか!
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●youtubeで「ガンバの冒険」のエンディングテーマを観る。作詞は「東京ムービー企画部」だが、この、明らかに子供向けのアニメでありながら、極めて穏やかでない詞はどうだろう。思えばルパン三世その2(足元に絡みつく~♪)なども「東京ムービー企画部」の手によるものであって、このいささか奥ゆかしく、かつ謎めいている「東京ムービー企画部」なる集団の作詞力に今更ながら驚く。これらに比べれば、昨今の若手バンドや女性シンガーの書いたアニメテーマ曲の歌詞なんて、どこに見るべきところがあるのだろう。と思うのは僕が年をとったせいだけではないと思う。
「ガンバの冒険ed」
雑記5/21
●アメ村のホルモン屋「空」でたらふく食う。食う。ハチノスがものすご美味い。なんで今まで食ったことがなかったのだろう。
●録画していたNHK「ラストメッセージ~湯川秀樹」を観る。核抑止という考えを全否定(それは狂気に近いほどの徹底的な否定である)した彼の晩年。現在僕らが当たり前のように受け取り、かつ疑ってもいないこの考えの有効性を全く認めない姿勢は、当時から滑稽に映ったに違いない。しかし考えてみれば、核抑止を得々と語る者のなかで、湯川より頭の良い者がどれだけいるかというとまずいないはずである。メチャクチャ頭エエ奴が考えに考えた末に辿り着いた単純極まりない思考。その単純性ゆえの凄みをどう考えたらよいだろう。問題は、「狂気に近いほどの」単純な思い込みが、なにか新しいものを生み出さないとは誰にも言えないということである。
●最近「人格」という言葉が非常に気に入っている。これは「にんかく」と読みます。人(にん)の格である。もちろん造語です。例えば僕は今までKさんやHさんやOさんについてさんざん書いてきたが、時々あったのは、僕が彼らをバカにしているという指摘である。僕にそんなつもりはないが、そう言われると返す言葉もない。そのように見えるのは仕方がないからである。しかし僕の彼らに対する気持ちは「バカにする」という気持ちとは明確に異なっている。あるいはノミタカアキに対する気持ちだって、「バカにする」という感じではない。単に正確に言い表す言葉(概念)がないだけである。となれば、これは言葉(概念)を生み出す以外にないと以前から考えていたのだったが、ようやく「人格(にんかく)」という言葉が浮んだ。「人格(にんかく)が高い」。KさんやHさんのことは、そう表すのが最もしっくりくる。ゴルフ屋の閉店作業をしていて、引き出しの奥から一枚のフロッピーが出てきた。「あ、これは!」とKさんは驚き、こそこそ隠そうとする。なんですか、それはと聞くと、見たいですかと何やら勿体ぶった表情のKさん。果たして、確認するとエビちゃんと宮里藍のコラ画像であった。「人格(にんかく)」がとにかく高いKさんである。
「七月二十二日の夜」全文掲載
「七月二十二日の夜」 


 歳月の経つのは早いもので、小説家S氏が物故してから、あわただしく三年が過ぎた。明七月二十三日は銀座裏の日本料理屋「丹頂」で三周忌の小宴が知友の間だけで催されるといふ、つまり祥月命日の前の日、私は世田谷太子堂に遺族を訪ねることにした。私は世間からはS氏門下とまで言はれるほど死者の晩年は側近に侍した日も亦多かつたのであつた。従つて亡くなつた当座の間は、私はたびたび仏様を拝みに行つたものであるが、その後私自身にもこれといつて格別嬉しいことがあるわけでもなし、芸術が栄えるではなし、何や彼と生活が、心の忙しさが、近来は特にそれを許さなくなつてゐた。のみならず去年の十二月に、忘れがたみの幼い次女が、S氏命終の真際に私が買つて行つた瀬戸の火鉢を抱いたまま上り框(かまち)から土間にのめって、ひどい火傷をしたことを人伝に聞いて以来、私はひどく気を腐らし、縁起が悪いやら気の毒なやらで、自然顔出しするのに拘泥を感じ強ひて控えてゐた。でも、此度こそは是非にもと思ひ決して、ユキを急き立て早めに夕食を済ました私は一しよに行きたがる彼女を連れて家を出た。
 矢来通りの消防署前のホーリネス教会の黒板に、われ時を知れり、今は眠より醒むるの時なり―と書いてあるのが不図眼に留まった。病的なまでその聖書の章句が、私の魂を混乱させた。私はわれを忘れて唖のやうに口を動かしぶつぶつ呟きを繰返し、時々立止まつたりしながら考え飯田橋の停車場へ歩いた。山手線の中でも、功利的に何等かの解釈の実感を呼び起さうと頻りに思案を重ねたが、畢竟、何事も己のはうですすんで時を知ることは出来ない。唯、受身の場合の外は宇宙人生に就いて亳(ごう)も知り得ない愚しい自分と言つたやうな、至つて頼りない、牾(もどか)しい気持ちであつた。
 太子堂に着いたが、暮るるに長い夏の晩方はまだ薄明りを留めてゐた。停車場から白い埃で埋没した狭い枝道を一丁も入つて行くと、電車やトラツクやの響きも次第に遠のく程に、折からリンリンリンと蜩(ひぐらし)の金切声が、一斉にあたりの多い木立の間に降り濺(そそ)ぐやうに起きた。私は耳を欹(そばだて)てユキを顧みて歩みをゆるめた。西の故郷の村の家で午睡の眼を静かに開くと太陽は落ちてゐて向うの山麓で蜩がしげく鳴いてゐるのを枕の上の頭を捩(ね)ぢてぢつと聴き入つた時の遣瀬(やるせ)なさが憶ひ出された。行くうち、丘の上の鉄筋コンクリート建ての小学校の新校舎とか、竹藪の中の塗りかへた赤い稲荷(いなり)堂とか、藁葺(わらぶき)の間にペンキ塗りの新しい西洋風の家屋とか、四囲の開化変遷に眼を向けつつS氏御在生のむかし足まめにここを通った時分に比べ、何か少時感慨めいた思ひに浸るのであつた。
 二年前に故人の旧友の方々が、芸術壇の各位に醵金(きょきん)を仰いで、買い取つてあてがつた荒物屋の、撒き水をした、電燈の暗い、ひっそりした店先で、乳色のアイスキャンデーを子供に売つてゐた未亡人は、
「おや、まァ、お久しぶりで……」と幾分テレたやうに白い歯を見せて、突然そこに現れた二人を慌てて迎へた。
 私共は凸凹の土間に履物を脱いで店の板の間に上がり、半間の葦のすだれをくぐつて、お店のほか一ト間きりの我楽多を乱雑に詰め込んだ六畳に導かれると、先づ無沙汰の言分け、詫言(わびごと)を並べるのもずゐぶん極りが悪かった。丁度まだ挨拶のやりとりの終わらないところへ、焼けどした女の児が裏口からとことこと駆けて入ってきた。両頬から口もとと頤(おとがい)にかけて見るも無残に焼け爛れ、癒え切らない傷痕からは膿のやうなものが浮き出し、喉の中でがらがらといふ音がしてゐた。
 と見た一瞬、筋を引きつる胴震ひが頭の先から足の先まで走り、私は低く俯向いてしまつた。
「嬢ちゃん、いらつしゃい」と、ユキは抱き取るが早いか、直ぐ湧き出た涙をはらはらと零した。
「困ったことをしましたね」と、私も長大息を吐いて言つた。
「ええ、わたしも、この子は育ててゆく気力がなくなりましたの。こんな情ない顔になつて。火鉢ごと店の土間にのめりましてね。火鉢は真二つに砕け、いつぱいに拡がつた灰の上に突つ伏して燠(おき)を口に入れましてね、一週間ぐらゐは口が腫れて開きませんでしたの。これでだいぶん癒(なほ)つたはうですが、いづれも少し日が経つて口を切つて大きくしてやらなければ、自由に食物が入りませんでしてね」
 全く未亡人の言ふ通り、子供はユキの膝を下りると持つてゐたキヤラメルを片つ方に歪んで醜く位置の変形した口に持って行ったが、唇の両端の上下の皮がくつ着いてゐてキヤラメルほどのものでさへ押し込めば痛むらしく、へんに眉根を寄せて蹙(しか)め面をする顔に、また私共は見てはならないものを見るやうに恐る恐る夫々の眼をちらとそそいだ。
「いつも死んでくれたらのならと思ひますのよ」と声を絞り、母性としての際限なき愁嘆、譬(たと)へやうのない苦悩の表情を未亡人は両手で蔽い隠した。「……慶応病院の整形科にかかりますとね、焼けた皮を剥ぎ取つて、腿(もも)の皮を切り取って張りかへてくれるさうですがね、痕(あと)には縫目だけのこつて、それも大きくなつてお化粧でもすると分らないくらゐになるさうですけれど、二百円やそこらはかかるさうでしてね、酒屋の二階に間借りしてゐる慶応の医科の書生さんが家へ煙草を買ひに来なさるたんびにさう言つてすすめて下さるんですが、もう怪我してから何んだ彼んだ百円の余もかかつて、家賃も三ヶ月分滞つてゐるやうな始末でしてね」
「整形科……それは是非に……」
 私は出かかつた言葉をぐツと咽喉の奥に嚥(の)み込んだ。所詮、私如き微力で鐚(びた)一銭も思ふにまかせて助けとぐることは能はないと思へたから。そして又、キヤラメルを口の内でもぐもぐしやぶつてゐる子供を盗み見てゐると、やはり私は、その整形科なるもので、離別した先妻との間に産れた自分の故郷の子供の、六つの時打つちやり放しに他国に放浪して七年も顔を見ない間にヘボ医者の手術から瞼が引つ張つて赤ん眼になつてゐるといふのを、今にも東京かに呼び寄せ進歩した技術の地から癒してやりたい、さうして置いたら子供が年取つてから苦しまなくてすむだらうに、不行跡な父として多少でも子供への申し訳にと突き詰めて考へ出すと、私は切なく騒ぎ出して来た心を掻い抱くやうに腕組みして眼を屢(しば)叩いてゐた。
 するうち、出し抜けに、
「時に、近頃、あなたのご商売のご様子は如何ですの?」
 未亡人の問ひに、はツとして私は頭を振り上げた。未亡人の口尻の微笑を見ると私の臆病な胸は俄に熱くなつた。私は言ひやうのない不幸な思ひをした。あの、何時の時か、S氏が故もなく私を怒つて、ヘーイ、君なぞ作家になれるもんかよ、俺にさう言はれて口惜しかないか、ヘーイ、と酔ひどれて毒吐(どくづ)き出した時、傍の夫人もS氏に追従して私に投げた口尻の微笑が、咄嗟に思ひだされたのだ。それは恐らく私に対した時だけかもしれないが、未亡人の、酒に酔つた時のS氏の見よう見真似で、目下のものに遣(つか)ふ幾らかナメたやうな口調の影が、殊に今日此頃、僻(ひが)みつぽくなつてゐる私にぐツと来たといふわけでもなかつたが、しかし女の癖に、割合にアレで新聞の文芸消息欄や広告には注意するはうで、まア、無名に近い私などは問題外であるにしろ、故人の仲間で誰それが振るつて誰それが振るはない、そんなことを知らうとすることが、萎(しお)らしさのない、慎しみの欠けたこと、限りもなく浅ましいことのやうにさえ思へて、つひ大人気もなく叩きつけるやうに、
「一向どうもお恥づかしいことで。しかしですね、斯う申し上げるのも何んですが、先生なんかも好い時期に死なれたものですよ。今頃まで生き延びられましても、世の中がすつかり変わりましたから……先生の嘗(な)められた苦労より、もちつともちつと苦労を今の芸術家はしなければなりません」
 と反抗的に口を滑らしてしまつた後で、女ひとりと思へばよくよく馬鹿にして自分も飛んだ不遜を口に出すやうになつたものだと、何んとも言へぬ自棄(やけ)クソな、捨鉢な、あああ、と言つたやうな嘆息が胸壁を圧して込み上げた。
 つづいて未亡人は、不景気で商売の思はしくない上に、最近は近所にできた公設市場に圧倒されて、もう二進(にっち)も三進(さっち)もやつてゆけない状態を愬(うった)へた。如何にもそれは尤な話で、しかも女の細い腕で周囲に対抗しようとして、前の頃は蓬々(ほうぼう)と乱してゐた髪もきれいに結ひ、小ざつぱりした服装にも、商人としての真剣さや尋常ならぬ心遣ひが察せられ、平素はさうした愚痴の聞人(ききて)もないのだらうからと、その心根にしみじみ同情もされた。が、どうも其日は私の蟲の居どころが普通でないのであった。
 全体、私はこんな立ち入つたことを軽率に言ひたくも思ひたくもないのであるが、故人の親しい友達の皆さんの発起で、途方に暮れた遺族扶養の目的で、一ト口五円の寄附金を文壇の方々にお願ひするといふ企を余所ながら聞いた時、北の片州にゐられる故人の正妻なら兎も角、謂わば事情のある内縁の妻である未亡人並びにその間に出来た遺児の世過ぎのために、印刷物を公の文壇の間に配布するといふことは、およそ策の得たるものでない、人情としては涙ぐましい美挙であり、他の窺ひ知らぬ温かい友情の発露であることは十分に承知し乍らも、何か非常に不条理な、筋道の通らぬもののやうに思はずにはゐられなかった、仮令(たとえ)百計尽きたとしても。芸術家の最後の理想として、われ陋巷(ろうこう)窮死す――とのS氏のきびしい芸術観と言はうか、生活観と言はうか、とまれ、左様な秋霜烈日といつた、いちじるしい気魄に対して、遺された妻子たちは諸共(もろとも)に餓ゑた犬か猫かのやうに其処辺の道端に手脚を投げ出して死んでしまつたのなら、土埃にまみれてプンプン悪臭の発散する板のやうになつた死骸を通る人々が下駄で蹴飛ばしベツと唾を吐いたりするのだつたら、それを鳥の群が集まって食べるのだつたら、それこそ故人の本懐、貧乏徳利と盃とを前にして貧弱な庭の遅咲きの躑躅(つつじ)の花を見やり、伸びた口髭を引つ張りながら、人ト為リ友親ヲ絶す――と口吟んでゐた信念の勝利、将又(はたまた)、遺作全集五巻へ錦上(きんじょう)更に花を添へるものとして、蓋しその矜り幸福とはどんなであつたであらうか! 私には切歯し、声を挙げて号泣しても足りない思ひがある。
 それこそ、未亡人のお心掛けとしては、まことに感心な、見上げた、真似のならないことではあるが、箸の上げ下げにも、死んだお父さんの流儀ですから、流儀ですから、と二言目には言ひ出すことを忘れないなら、おめおめ他人様の御喜捨に縋(すが)つて日々不平言ひ、まだ不足々々の思ひをするとは、何んといふ生くるものの悲哀、生存の醜さ――と言つて何も決して決して未亡人ひとりの御姿とは申さない迄も、それが取りも直さず私の姿であり、よし万人の姿であらうとも、私にはこの人生及び芸術なるものが、理想と実際が、ただただ残念で堪らないのである。
 斯うした非難と矛盾の感情とを噛み締めながら、ややして私は、痺れた足でふらふら立ち上り、床の間に積み重ねたビール箱の上のお粗末な御仏壇に向ひ、線香を立て、鉦(かね)をチ-ンチーンと三つばかり鳴らして、芸術院善巧酒仙居士――と書いた位牌に掌を合せ、毎度のやうに、(どうぞして私の拙い小説にも日の照る時が訪れますやう、先生のやうに文名が挙りますやう、出世の望みがかなひますやう、南無)と、一心こめて禱(いの)らうとしたが、複雑な思ひ、不謹慎な心、何一つお役にも立ち得ないに拘らず、とや角ケチケチした横着な批判、余計なおせつかいを加へるなど、それらの邪念の疚しさが胸の中でごつちやになつて、狼狽し眼を伏せて、逃げるやうに暇乞ひして屋外へ出た。
 私はたしかに呪ひを受けて、顔色蒼然と、紫色になつた唇をぶるぶる顫(ふる)はし、よろよろと帰途に就いた。渋谷で郊外電車を棄て、省線に乗り替へ、代々木でまた乗り替へると、
「ああ、頭が痛い、ふとすると眩暈がくるかもしれん」と、私は両手で頭を抱へた。
「困りましたね。わたしの膝に伏しついてゐて下さい」と、ユキもおろおろ声で言つた。
 車内の人目も憚らず私はユキに凭れかかると、行きなり怪しい睡魔に襲われて、とろとろと意識が間遠になつて行つた。
 ――共同便所の入口に友達を待たして置いて、自分はぐんぐん家に入って行き、出て来た頭の丸い色白の奥さんに取次を頼んだ。ところが、この偏屈な、気むづかしい大家が会つてくれることになつて、自分が玄関に上つたところへ、をかしなことには、奥さんが瀬戸の大火鉢をかかへて出て、(これを二階に持つてあがつて下さい)と命じた。私はかかへようと焦るけれど、重くて持ち上げられず弱つてゐると、二階からとんとん梯子を踏んで大家が降りて来、なんなく火鉢をかかへて、廊下伝ひの落間に私を通した。二人が初対面の挨拶をするはずみに二人の額と額とがカチ合つて、雙方(そうほう)の眼から火花が散つたが、二人ともあツ痛いとも言わねば。笑いもせぬ。大家は一段高い室に上つて私を見おろしながら親切に話してくれてゐたが、私は共同便所に残して置いた友達が気がかりで仕方なく、(わたくしはバツトを吸わなければ片時もゐられません、そこまで一寸買ひに行かして下さい)と許しを乞ひ中座して外へ出た。(君、君、大家が会つてくれたよ。不思議ぢやないか。では、失敬だが、君は××さんのはうへ独りで行つてくれたまへ)と自分が言ふと、友達は(ぢや僕、夜汽車で行く)と不機嫌に言つてぷいと踵を返した。自分は再び大家のもとに引き返さうとしたが、今度はどうしても家が分からない。斫(き)り立った火崗岩が銀白色にぎらぎら光る傾斜した街に駆け上がつたり、と思ふと窪地を尋ね歩いたり、狂気のやうになつて捜してゐるうちに古寺の台所口へ出た。それが芝の青松寺である。お寺の娘さんが、(その家ならこの前の家ですのに)と言ふ。私はほツとして玄関に入ると、奥の方で天狗のやうな四角な顔のS氏が、(野幇間め! あんな野郎は贋物だよ贋物だよ。ちよつとも心掛がなつてないぢやないか、芸術家になどなれるものか!)とかんかんに怒つて夫人と共に自分のことを罵つてゐる。私はわツと泣き伏した……。
 ユキが、あなたあなた、と嗄れ声でゆすぶり起す先に、私は自分の泣声で眼が覚めてゐた。車内の人々はびつくりして、或者は立ち上つた。ピリピリと笛が鳴つて電車が一時停車をしさうな気がした。訝かつて車掌が訊き糺(ただ)しに来たので、ユキが私を見守りながら何か言ひわけをした。夢の中の(贋物だよ贋物だよ)との罵声がきざみこまれ、眉間が裂けるやうにづきづき疼いてゐた。間もなく全身の脂汗が引くと、ぞくぞくと寒気が襲つた。飯田橋駅で下りるとユキは注意しいしい私の手を扶(たす)けて見附(みつけ)へ出た。暗いお濠(ほり)の上に点在したボートのアセチリン瓦斯(ガス)の灯が、二重三重に私の衰へた眼に暈(ぼか)して映つた。ユキの言ひなりに私はそこの氷屋の縁台に腰かけて、心悸の亢進を鎮めた。そしてサイダーを飲んでゐるうちに、だんだん元気が回復して来た。私は二三度頭を振つて見て、
「もう大丈夫だ、気遣ふな」とユキを慰めて言つた。
 神楽坂の夜は今が人の出盛りであつた。いとけない児は手をひかれて立ち、年老いた人は杖にすがつて歩いてゐた。私共は両側の夜店の、青々とした水を孕んだ植木、草花の鉢、金魚屋などの前で足を止めたりして坂を上つた。肴町の交叉点近くの刃物店「菊秀」の前まで戻ると、疾(とう)から散歩の度毎に覗いて、欲しくて欲しくて堪らなく思つてゐたナイフを、今夜もまた見ようと思つて明るい飾窓に近づいた。
「あのナイフですよ。僕が欲しがつてゐるのは」と、私はユキに人さし指で差して言つた。
「お買ひなさいましよ。三円五十銭?……いいぢやありませんか。思ひ切つてお買ひなさいよ。買ひそびれたらなかなか買へませんよ」
 ユキの応援にまだ躊躇してゐると、前垂れがけの小僧が、へえ、どれですか、と寄つて来たのに誘はれて到底私は店の中に這入つてしまひ、あれこれ手に取り上げて鑑定したが、結局予め気に入つてゐた品にした。私は大さう満足であつた。この一挺のナイフを守り刀にして魔を払うて行かうといつたやうな至極子供らしい考へに興奮して、大急ぎで家に帰つた。
 私が思ひがけなく買物をしたのでユキも喜んでくれてそはそはしてゐた。鞘(さや)には三つのボタンがついてゐて、安全瓣(べん)を左に回して置いて一つを押せば長い方、一つを押せば短い方、一つを押せば爪切りが跳ね起きる仕掛になつてをるのを、私は代る代るボタンを押してはパチンパチンと起したり、折り畳んだりしてゐたが、突如、
「どうも、こいつは、狂ひが来さうだな」
 さう言つて私は顔を曇らせた。あれだけ欲しく思つてゐたものをやつと手に入れれば入れたで、直ぐ自分からケチをつけ出した不仕合せが恨めしかつた。私は机の上にはふり投げたり、未練げに手に取つたりして暫らくの間苛々してゐたが、
「やつぱし、五円五十銭といつたアハビ張りの方が簡単に出来てゐていいあの方にすればよかつた。失敗した!」と、私は絶望的に言つた。
「ぢや、アト二円足せばいいんですね。それではわたしが買ひかへて来ませう。あなたのことだから、さう言ひ出したら、夜つぴて眠らないんですからね。わたしまで眠られやしない。……取つ替へて来て今度はイヤとは言ひませんね。よろしいですか?」
 心配して着物も着替へず側に寄り添つてゐたユキは、斯う念を押してナイフを蝦蟇口の中に入れ、急ぎ勝手もとの下駄をつつかけたが、振り返つて、「ほんとに五円五十銭も出せば、夏羽織だつて古着なら相当のものがあるぢやありませんか。明日の会だつて、あんな染め直しのよれよれを着て行つて、あなたはそれでよくつても女の恥ぢになりますよ。羽織を買はうと言へば呶鳴り散らしたりして、近頃ほんとにあなたは病気ですね」と言ひ捨てて出て行つたが、ものの三十分も経つたと思ふと、顔ぢゆうに汗の粒を浮べぜいぜい息を切らして帰つて来て、ナイフを手に握つたまま自慢さうに講釈を始めた。
「これは、ヘンケルと言つて、ドイツの会社でも一番有名だつて、さう主人が言ひましたの」
「さうか、ヘンケル……なるほど」私はほくほくして言つた。
「先刻のはハーデルと言ふんですって。でも、ハーデルよかヘンケルのはうが一枚上ださうですよ。この上の品は菊秀にはないのですつて」と、ユキはいよいよ調子づいた。
「さうか、ハーデル……あなたも感心によく覚えて来ましたね、お利口さん、どれ、かしてごらん」
 私は小づくり乍ら頑丈に出来たヘンケル製とかを手の腹に乗せ首を傾げて重量を計つて見た。それから爪で中身を起したり、息で白く曇るのを袖で拭いたりして、ユキの鼻先に突きつけて渾(ふ)り廻した。
「こうれ、おれの言ふことを聞かんと、これだぞ」
「おゝ、怖い……」ユキは大袈裟に笑つた。
 軈(やが)てユキは私に言ひつかつてナイフを入れる袋をこさへるため、押入に頭を突つ込んで古葛籠(つづら)の中を掻きまはしてゐたが、厚板の小切れをとりだして、火熨斗(ひのし)をかけたりしてゐる間、私は彼女の傍に仰向けに寝そべつて、猶、ナイフをつまぐり、刃先を飽かず眺めてゐた。
 暫らく沈黙が続いた。
「あなたのことですから、物を大事にする人ですから、一生涯持つてゐらつしゃるでせうね」
 きゆうきゆう縫絲を爪でこきながら、洟をすすつてユキは何気なく、そんなことを言つた。
「うん……」
 私は軽く頷いたが、途端、今までの喜び全部が、暗い淵の底に石でも抛ったやうにドブンと音を立てて沈んで行つた心地がした。S氏が世田ヶ谷のごみごみした露地内の、狭苦しい、蒸し暑いやで、口をパクパク二つ三つ喘がせて息を引き取つた時隣家の垣根を飛び越えて来た大きな虎猫がミヤンミヤンとドラ猫で鳴いて近寄ると、未亡人が、「それ猫が来た!」と縁側に出て手を上げて追ひ払ひ、室に駆け戻ると生前S氏が使つてゐた仕事机から、錆びた、安つぽいナイフを出して、死人の枕もとに置いたことが、ふーッと頭に泛(う)き出したのだ。――実のところ、私もそんなに長く生き永らへる自信は持ち合せていないのであつた。時とすると死が足音をひそませて忍び寄るやうに思へることが度々である。定めしユキ一人に看取られ、何処かの侘び住ひで寂しく閉眼するだらうが、生臭いにほひを嗅ぎ知つた黒い野良猫が黄金色の目玉を光らせて死体を喰ひに来た場合、剃刀(かみそり)は平日から持つてゐないので、泣き沈んだユキが、「しッ!」と猫を叱りながら周章(あわ)ててこのナイフを取り出して枕辺に置く――続いてさうした光景が眼に見えて描かれて来ると、そんなこととは知らずに一生懸命に針を動かしてゐるユキの顔が、もう正視出来なかつた。
 だが、と何ものかが絶え入るよやうに滅入つた自分を強く撥ね返した。自分一箇としては、独生独死は、かねての覚悟であり深く思ひ知つてゐる筈ではなかつたのか? 今日私がどうにかしてほんに見窄らしき存在にありついたのも、先師芸術院ゐまさずば、このたび空しく過ぎなまし、偏(ひとえ)に専らS氏の矜哀、彼岸からの鞭撻によるもの、引いては又、あれを思ひこれを思ひ、度に落涙に打咽(うちむせ)ぶのであるが、さりながら、S氏が例の口をパクパク動かして名残をしさうに死んで行つた際、一座の恋慕涕泣(ていきゅう)の真只中、私も外儀の姿は如何にも殊勝らしき悲嘆の色を装はうてゐたとはいへ、口でこそ何んとでも言ふとは言へ、――やれやれ、これで埒があいた、実に骨の折れる人であつたが、ああ助かつた――自分は自分の狭い安堵の心を神の前に祕(ひ)め隠すことができやうか!
 せめてもの自分の悔悛が最早神を怖れない程に高くしようとして、えんらこらさと梶棒でも挽くやうに、私は幾度もお念仏を唱へた。
 眼をつむつてゐると、S氏の未亡人の境涯が新な憫みを以て心底から同情された。そして二時間前の浅墓(あさはか)な、感情にかられた末梢的な非難が又改めて悔いられた。人の身の上わが身の上、根本のことは、大した悲劇でも喜劇でもないと今は容易に言ひ得るのであるが、地上の娑婆にあるあひだは、根無草のやうに違順(いじゅん)した愛憎の花が咲く。それにつけても、肉親らしいものも寄方もないユキの身の振り方――我慢もいい加減にして、この際ユキを故郷に連れて帰り、両親に引き合せて因縁をつけ、継子ながら自分の子にも因縁をつけて置いてやることが、意気地ない哀しい打算ではあるけれど、私に死別した後の彼女の平安のために、何より焦眉(しょうび)の急であることに思ひ到つた。
なんでこんなことに…
 会津若松の母親殺人事件。大変いたましく、又不可解な事件ですが、各局各番組ではまたぞろ犯罪心理学者なる人々が、大変少ない情報、しかもそのほとんどが警察発表であろう情報を頼りに、17歳の少年の「心の闇」を解明するのに躍起になっておるようです。

「ザ・ワイド」もそうした内容を目論んだようなのですが、出てきた犯罪心理学者、正確には臨床心理士らしいのですが、この人物の姿におそらく視聴者全員が、もしかすると草野はじめ出演者全員が度肝を抜かれたに違いない。

 何故だか分からないが、誰かにボッコボコに殴られたかの如く顔面を負傷している。(クリックしてご覧ください)

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 頭部の不自然さもさることながら(しかし、それは本来『さることながら』などとは言えないはずなのだ)、なぜこんな無残な姿になったのだろうか。

某巨大掲示板では「オヤジ狩りに合った」「刀で斜めに斬られた」「反ヅラ組織との抗争」、あるいはまた「頭部に視線を集めないためのカムフラージュ」などいった憶測が飛び交っているようです。

 西武文理大学講師、矢幡洋さん、一体どうされたのでしょうか?。とても心配です。(クリックしてご覧ください)

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サメやなくてトラ
「虎鮫」
本人のみならず、佐山閣下をはじめみんな気に入っているようです。
「穴」にまつわる三章~その三
 この数週間、右耳の「聴こえ」が悪い。
 理由は分かっている。耳の掃除が行き届いていないからである。
 そのことの理由もまた明白である。
「穴」が怖いからに他ならない。
 
 みなさんご存知のように、この世に生を受けてから僕は30数年経つわけだが、情けないことに未だに、先が申し訳程度にスプーン状と化したあの木の棒をどこまで突っ込めば耳の内壁を掻き切るのか。鼓膜を突き破るのか。あるいは、あの巻貝みたいな奴(知らんけど)を突っつくのか。加減が少しも分かっていないのである。これがどういうことかといえば、とどのつまり「穴」が怖いからという事由以外になく、この論法にいささかの抜け穴はあるまい。そもそも「穴」が怖くて、そのなかで作業をするとなると尚恐ろしく、ましてや作業ミスはすなわち自傷に繋がるのであるから、いきおい、行き届いた耳掃除など不可能である。絶対に無理である。
 
 僕のような手合いにかかっては、あの逆っ側のフサフサの白毛も実は凶器にしか見えない。あのフサフサは、一見して白ウサギを思わせる人懐っこい姿をしているけれども、中心に硬い心棒があり、耳の中で乱暴にガチャガチャやったりすれば必ずや心棒が牙を剥くはずであることを僕は知っている。墓穴を掘るのは目に見えているのである。
 
 誰があの器具を発明したか知らないが、フサフサで人を油断させようとしても無駄である。一皮剥けばただの角材であることは疑いがない。
 
 そんなわけだから、僕の耳掃除は一口に言って格好だけであって、恐る恐る、耳の入り口の辺りのみをそろそろと、掻いたか掻かんか分からんような注意深さで触れるのみであった。ハッキリ言ってただの暇つぶしですね、あれは。

 ところがここ最近、明確に不自由を感じるようになってきて、さすがの僕もマズイと感じ始めた。まがりなりにも音楽ライターでありながら、「耳掃除が怖いので、とうとう耳が聞こえなくなりました」などとは馬鹿らしい。他言できるかといえばできるわけはなく、ただただ恥ずかしい話だ。穴があったら入りたい気持ちであった。

 こんな状態になっても、しばらく僕は我慢していた。嫁にはさんざん「病院行け!」と言われていた。なにせ、「なに?」「すまんもう一回言うてくれるか」という僕のセリフの多いことといったら!。また、耳の「聴こえ」が悪いと自分の発した声の大きさすら把握しづらいので、場違いな大声を張り上げたかと思えば、雑踏で消え入るような小声で話しかけたりもするらしく、まったく嫁の感じる鬱陶しさがしのばれるが、しかし僕は穴熊戦法なみの頑なさで病院行きを拒んでいたのだった。だって怖いから。

 しかしもう駄目だ。いよいよ日常生活に支障をきたすようになったので、僕は渋々、しかし意を決して、虎穴(耳孔)に入らずんば虎子(聴力)を得ずの気持ちで南堀江のK医院に行くことにした。

 昼前の待合室は案外に込んでいて、ほとんどが母親に付き添われた子供であった。同じ穴のムジナ、と言っては言葉が悪いが彼らは「同士」である。僕は診療を受ける「同士」の様子を穴が開くほど見つめていた。泣き叫ぶ子も中にはいるが、ほとんどの子は僕にはいかにも荒療治に見える処置をしおらしく耐えている。なんと健気な子たちだろう。ああ、俺ももうエエ年した大人なのだから、あの子たちを見習って耐え忍ばねば笑われると身を固くする一方で、このオッサンは、耳孔から入れられた器具が脳に風穴を開け、医者のいいようにいじくられるという荒唐無稽な不安を感じていたのだから世話は無い。

 耳鼻科で行う耳かきは、なにしろ耳鼻科の医者が為すのだから治療に違いなかろうが、なにか魔法の薬品や器具を用いるなどして、素人の及びもつかぬ手段で、驚くほど簡単にすんなりと耳垢を取るのかと思っていたら、掃除機のようなホースで掬い損ねたカスを吸い取る以外は、基本的には自分でやるのとさして変わらないんですね。僕は怖くて詳しく見ていないが、なにか金属製のものを「穴」につっこんで掻き取る。しかしもちろんそれは、素人に比べれば針の穴を通すが如き精確な器具さばきで、多少は痛かったが、僕にも耐えうる治療であった。脳をいじくられた可能性はあるにせよ、である。
 
 だが、これは歯医者でもそうだと思うが、あの「痛かったら言ってくださいね」というのはなんとかならないものだろうか。こちらが「痛い!」と感じたときには普通コトは終わっているのであって、今更「痛い!」と言ったって手遅れではないのか。第一そんなに俊敏に「痛い!」とは言えないので、こちらの反応としてはまず瞬間的に眼を固く瞑るとか歯をくいしばるとか、びくっと身をこわばらせるくらいがセキの山であり、始終びくっびくっとしていると、医者はイライラしたような言い方でもう一度「痛かったら言ってください」となどと言う。

 僕が医者に求めているのは「痛い!」などと感じさせない治療であって、長年耳の「穴」を見続けた彼らは、「ここ突っついたら痛いやろな」くらいの洞察が働く程度には眼力を備えているはずである。それがないなら、彼の眼は節穴ではないか。

 とはいえ、思ったよりはオペ(そう、それは誇張でなくオペである)のストレスは少なかった。おかげで快適にものが聞こえるようになり、残すは脳の不安だけだが、帰りしに自転車で真っ直ぐ走れていたのでそれもきっと大丈夫である。
 

雑記5/9
●毎年のことだが「ゴールデンウイークにどこかへ行くかどうか」を巡って嫁と鍔迫り合い。もちろん僕は「無理してどっか行かんでもええやん派」ですが、結局ある程度こちらが折れて、ある程度向こうが妥協する。これも毎年のこと。
●「現世美術展2007」というイベントを見る。そもそも、自称/他称にかかわらず、いわゆる「若手アーティスト」という人達を、甚だしい独断と偏見によって(要するに『見もせずに』ということ)全く信用していない僕がこういうイベントに足を運ぶことは大変珍しいし、また祇園の禅寺・建仁寺の離れの庵(禅居庵)というロケーションは面白くもあるが、一方で勿体臭くもある。でも知り合いの才めく写真家I君が作品を展示するというので。さて、蓋を開けてみればこちらの鑑賞態度(なにせI君の展示作品以外はほとんど“観て”いない。単に作品の前に立っているだけ)にも問題があるのでしょうが、我ながら不自然と感じるほどアッという間に見終わる。I君の作品は、失礼を承知で言うなら、今後オモロイ妄想を具象していくためのパイロット版という感じがしました。ともかくお疲れ様でした。
●かねがね行きたいと思っていた「京都国際マンガミュージアム」へ。旧・龍池小学校の校舎を改築したというこの施設のなかを歩いていると、コスプレイヤーと専属(?)のカメラマンの方が、渡り廊下、階段、踊り場と、細かくシチュエーションを変えながら撮影していて、同じ方に何度も何度もすれ違う。運良くこの日は「コスプレ交流会」なる催しが行われていて、中庭に思い思いのキャラクターに扮した方々がひしめいていたので、そこをしばし練り歩く。練り歩いてほぼ中央に鎮座。噂には聞いていましたが、「BLEACH」大人気。
●嘉村磯多「七月二十二日の夜」読了。のみならず転写終了。これが実に骨の折れる作業で、旧仮名遣い、旧字体を正確(かどうか未だ校正していないですが)にタイピングするのに大変な時間と労力が。なぜこんなことをしたかといえば当ブログで全文掲載するためだが、ブログに掲載してどんな意味があるかは知らない。ネット上で嘉村磯多「七月二十二日の夜」が読める。これをすごいことだと思い、面倒な転写を実行するだけの暇があるのは、おそらく今のところ日本中で僕一人でしょう。いずれ公開。
「穴」にまつわる三章~その二
 ちょうど1年前、僕はこういう記事を書いていた。↓
http://outofhumor.blog49.fc2.com/blog-entry-81.html
 ここで言う「アンビヴァレントな感情」について、「後に書く」などと言っておきながら僕はとうとう丸一年間書かなかった。こういうことはよくない。よってまずはこのことから書いていこうと思う。

 前々回書いたように、「穴」が不気味で恐ろしいことはこれはもう間違いないわけだが、同時にとても気になる現象、空間である。なぜなら理不尽でユーモラスですらあるから。これは僕だけの感覚ではないと思う。例えば「穴」はしばしば「ぽかり」と、「ぽっかり」と、あるいは「ぽかん」と開いているが、このようないかにも間の抜けた副詞が用いられることがそれを証明している。

 これらの副詞に修飾されたとき、「穴」というものは第一に突然、出し抜けに開いていること。そして第二に、はしたなくも大きく、それでいて大変空虚な装いで開いていることを示している。言い換えれば、このとき「穴」は「突然の大きな虚しさ」を象徴的に、間の抜けたニュアンスで表していることになる。そんなもん、気になるに決まっているではないか。

(この「間の抜けた」というのが極めて重要で、単に「穴」が欠落や空虚を表すと考えるのはペシミスティックに過ぎる)

●僕が「穴」に目覚めたのはおそらく物心ついてすぐであった。子供の頃僕が住んでいた家は床下が勝手口のところで吹き抜けになっていて、飼い猫が便意をもよおすとそこへ入っていって、しばらく経って顔に蜘蛛の巣を引っ付けて出てきたりしていたが、僕はその縁の下へと通じる黒々とした闇を殊のほか恐れていたのだった。何故恐れるようになったか記憶は定かでない。覚えているのは、なんとなくずっと、実際見たことはないにもかかわらず「蛇がおるんやないか」と僕は思い込んでいた。
(時代劇とか歴史小説などで、間者が床下に潜んで会話を盗み聞くというシーンが時々あるけれども、彼らが蛇の出現をいささかも警戒していないということは僕には驚嘆に値する)

●僕が通っていた小学校は一棟だけ木造校舎が残っていて、僕は低学年をそこで過ごした。教室の床に親指が通るくらいの「穴」が開いていて、度胸試しか何か知らないが、その「穴」に指を突っ込んでジッとしているというクソ面白くもない遊びが一年生のとき流行った。誰か一人が笑いをこらえきれぬという表情で数秒間「穴」に指を突っ込んで、今度は別の奴が、次、俺突っ込むわなどと言って順繰りに交代していくのだが、僕にとって、これほど恐ろしい遊びはなかった。体の一部が暗黒の異世界に飲み込まれるというあの恐怖感。指を入れて、引き上げたときにその指が付け根から失くなっているという想像を僕は何度したかしれない。なぜなら異世界にはどんな生物、魑魅魍魎がいるか分からない。無論、もおるやろう。
(今考えれば、ただの「箱の中身は~」というゲームにすぎないが、僕は恐れを知らぬ阿呆な友人たちを本気で諭していた。「やめとけ!、ほんまにやめとけ!」と)

 この木造校舎は、僕が高学年になって取り壊されてしまった。そのとき「当然や」という思いと、何か「畏れ多い」という思いが半ばしていたのを覚えている。この校舎での遊びがなければ、僕がこんなに「穴」を恐れることもなかったわけで、言いようによれば僕は木造校舎に「感性」を育まれたということになる。こうしたことは、おそらく僕らの世代が最後に違いない。だが僕にとっての問題は、懐古的な意味を排除したところで、かかる木造校舎の感性が消滅することが良いことなのか悪いことなのか、ということである。
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