out-of-humor2
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雑記10/26
●久しぶりにジュンク堂に行き、いましろたかし「盆堀さん」と杉岡幸徳「日本トンデモ祭」を購入。「日本トンデモ祭」は途中まで読んだが、いっちょ笑かしたるでという作者の気合がうるさい。もっと単純に客観的事実だけを示せないものか。それにどうもこの作者の観察力や発想力や表現力の背後には何かうそ寒いものを感じてならない。いましろは読んでいないが、どうせ面白いのだろう。いや正確に言うなら、どうせ僕には面白く感じられるのだろう。
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●そのジュンク堂でカレンダーフェアというのをやっていた。定番のグラビアアイドルのカレンダー、細木和子の六星占術開運カレンダー相田みつを片岡鶴太郎…。しかし動物モノって多いんですね。犬、猫、ウサギ、パンダ等。なかに犬川柳カレンダーというのがあったが、なんだろうかあれは。そして、さだまさしの良い言葉を毎日拝めるという「さだまさし日めくりカレンダー」をちょっとだけ立ち読み(立ち日めくり)し、一瞬買おうかと思ったが、やめた。
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親父だけの者
 こ、これはいいじゃないですか↓
 http://www.tanteifile.com/newswatch/index2.html

「もうジャイアンツだけのサムライではない」を「もう親父だけの者ではない」と書き換えるセンスと度胸は大したものです。
 なんぼパクリといったって、こうは書けませんよ。
紙資料について
 総じてCD宣伝用の「紙資料」なんてものには、データとしての意味以外に大した意味は無く、とりわけライターあるいはメーカーの人間の手による、あの思い入れたっぷりの、歯の浮くこと甚だしい、場合によっては嘘八百を並べ立てた推薦文なるものの胡散臭さときたら、ほとんど贔屓の引き倒しとしか思えないほどであるが、職業柄僕はそういうものに慣れていて、さらに言えば、かかるデタラメを述べねばならぬ書き手の境遇を思い、同情すらしていたのだったが、今度という今度は我慢ならなかった。例えばこんな調子である。

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 今までの○○の曲は、ブルースとフォークとロックンロールの間で定点を決めあぐねている感があったが、ここでは堂々と「自己表現を鳴らすことこそが、今この時のロックなんだ」という覚悟が決まったかのように、はっきりとしたギターとビートをぶつけている。結果的にそれはベッ○や○村○義が世に放たれた瞬間のようにオリジナルな衝動を激しく叩きつけながら、ヒップホップやらパンクやらブルースやらをごった煮にした独自のオルタナティブ性を響かせている。
~中略~
 ○○が自らの混沌を裸のまんま曝け出した迫真の自己告白であり、卓越した音楽観によって孤独の告白にポップの天使がたくさん訪れ、普遍性が宿ってしまった奇跡の作品集である。人によっては、天才的なソングライティングに耳を持っていかれるかもしれないし、人によっては現代性と狂騒のテンションを具体的に響かせ始めたサウンド・ダイナミズムに興奮を覚えるかもしれない。
~中略~
○○が覚醒したのか、それとも化けの皮を剥がして遂に本性を表したのか、僕にはわからない。何故なら彼は天才だからで、天才の考えることはよくわからないからだ。しかし、ここにはどんな音楽よりも生々しい「心」の動悸が鳴っている。つまり、本当のロックが鳴っているということだ。
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 しゃらくさいとはこのような文章のことである。一体この文章には、なにかを捏造しようとする情熱以外になにがあるのか。
 
 第一に、「堂々と『自己表現を鳴らすことこそが、今この時のロックなんだ』という覚悟が決まったかのように、はっきりとしたギターとビートをぶつけている」とはどういう意味か。自己表現とは何だろうか。
 第二に、「独自のオルタナティブ性」なるものがどういうものか分からないが、「ヒップホップやらパンクやらブルースやらをごった煮にした」程度のことで表現できるなら、このご時世もうみんなやっている。要するに少しも「独自」ではない。ところでこの人、まさかとは思うが次作の紙資料では「今までの曲はヒップホップとパンクとブルースの間で定点を決めあぐねている感が…」などと書きはしまいな?
 第三に、「迫真の自己告白」などというものを僕は信じない。仮にそれらしきものがあったとしても、それはほとんど「迫真」という形容とは程遠い、使い古された表現上の一フォームに過ぎん。そもそも「孤独の告白」なんてものはある程度「普遍的」なもので、誰しも多かれ少なかれ日常的に孤独を感じるし、告白している。「奇跡的に普遍性が宿ってしまった」どころかいかにも通俗、そんなものは深刻めかして読解してみせるようなものではない。
 第四に、「現代性と狂騒のテンションを具体的に響かせ始めたサウンド・ダイナミズム」とはどういう意味だろう。現代性だの世代性だの共時性だのといった概念は、言いようによっては何にでも当てはまり、こんな言葉はおどろおどろしいだけで少しも活力が無い。そして、何にでも当てはまるということは何も言っていないのと同じである。
 
 最後に、デビューしたての新人に対して、否、たとえ対象が誰であろうと、「天才」などという言葉を何度も用いる神経が僕には分からない。たとえ冗談だとしてもである。

 これを書いたのは某有名ロック雑誌の元編集長だが、果たして真面目に書いているのだろうか。あるいはこの文章は真面目に読まれているだろうか。とてもそうは思えない。おそらく、いい加減に書かれたものがいい加減に読まれている。では、この形骸化した儀式(セレモニー)になにがしかの意義があるかと言えば、冒頭に書いたように結局のところほぼ無いのであって、それならそれで構わないが、少なくとも僕はこういうもののせいで取材の意欲を著しく殺がれている。もちろんアーティスト本人に罪はない。が、そのことがますますこちらの意欲を減退させるのである。
雑記10/10
●昨日もんじゃを食べた。確か人生で3度目のもんじゃである。
 初めて食ったとき、もうこんなものは一生食うまいと思った。嫁も同じ意見だった。しかしうちの嫁は、よく言えば寛大で、悪く言えば学習能力が乏しく、どこぞに美味いもんじゃを食わせる店があると聞くと、喉元過ぎれば不味さを忘れたか、今度こそと意気込んで食いにいこうという。むろん僕は反対する。しかし嫁の理屈はこうである。
「みんな美味い美味い言うてるやないの。あんたより舌の肥えた人らが美味い美味い言うてるやないの。今までアンマリやったのは不味いもんじゃやったからで、オイシイもんじゃを食べたら、そらオイシイに決まってるやんか」
 分かったような分からんような言い草であるが、結局こちらが折れる羽目になる。
 で、昨日食ってみたら、やはり不味い。というか正確に言えば美味くも不味くもなく、不快である。あのセコイ食い方が嫌だ。鉄板の上でだらしなくノッペリと拡散する汁を焦がして、理不尽なまでに小っちゃいコテ(って言うんでしたっけ?)でコソギ取るというあのやり方、あれが紳士のやることかよ?。と僕は言った。嫁も同意見であった。
 しかし嫁によれば、もんじゃが愛される理由は結局その食い方にあるのだという。
「今日分かったわ。あれはみんな美味いと思て食べてない。楽しいと思てるだけやねん。私は楽しくなかったから、もう絶対食べへん。マジで」と嫁は言った。
●そういえば今週はなんかよく分からん食い物ばかりを食っている。もんじゃにスープカレーにつけ麺…。どれもそこそこは美味いと言われているような店で食ったのだが、どうも分からん。「分からん」という感想が一番しっくりくる。美味い不味いが分からんのではなくて、食い方が分からんのでもない。しかし分からん。意味が分からん。それぞれのすぐ近くにもっと美味いものがあるやないかという感じがどうしてもする。
●駅に留めていたチャリが撤去された。帰ってくるとチャリがなく、その代わりに撤去しましたと書いた紙が張ってあり、僕はもちろん途方に暮れ、怒りもしたが、あのボロチャリは車軸が曲がっているだかなんだか理由は忘れたが、大変ペダルが重くて漕ぐのがしんどいので、保管料2500円払って取りに行くよりはいっそ新しいのを買ってしまおうと考えた。というわけで自転車を買った。26インチのママチャリを買った。ぐいぐい進む。風を切るの感がある。何故かここ数年でみんな小っちゃい自転車に乗るようになったが、あれは駄目です。風を切るの感がないから。あの小っちゃい自転車で、闇雲に急いで、足を高速で回転させている女の子を前に眺めると不憫な気さえする。こちらが1漕ぎする間に、向こうは3漕ぎくらいしている。さて、そこでもし僕が本気を出したらどうなるか。ビューンと群を抜くスピードで抜き去る。女の子はいくら急いだって無駄である。追いつけない。なぜならこっちは風を切っているから。
 という話を帰ってきて嫁にすると、じゃあ私のと取り替えろという。意外な切り返しであった。嫁は小っちゃい自転車に乗っている。
「ということはお前、負けを認めるということか?、俺のチャリのほうが優れてるとお前認めるか?」
「うん、認める認める。認めるから取り替えろ」という。
 むろん取り替えたりはしない。しかしこのまんざらでもない気分はなんだろう。
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